南極物語-日本が南極観測に参加する経緯

樺太犬タロ・ジロで有名な「南極物語」の実話の第1話「日本が南極観測に参加する経緯」です。目次は「南極物語-実話のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

南極物語-日本が南極観測に参加する経緯

1945年(昭和20年)8月15日、ラジオから玉音放送が流れ、日本は終戦を迎える。

それから11年後、まだ敗戦の色が残る日本で、国民・科学者・企業が1つになった国家事業があった。それが南極観測隊(南極学術探検)である。

日本が南極観測隊を派遣する経緯を説明するために、話しは第1次南極観測隊が日本を発つ5年前の1951年に遡る。

1951年(昭和26年)、世界の学術機関などで構成する「国際学術連合会議(ICSU)」は、1957年7月から1958年12月にかけて、「第3回国際極年」の開催を決定した。

国際極年とは、北極・南極を観測する世界的な共同学術調査のことで、いわば50年ごとに開催される「科学のオリンピック」である。

これまでは50年ごとに国際極年を開催していたが、アメリカ・オックスフォード大学のチャップマン教授らが科学技術の目覚ましい発展を理由に、第3回国際極年の開催期間を25年前倒しすることを提言した。

国際学術連合会議はチャップマン教授の申し入れを可決し、1957年7月から1958年12月にかけて第3回国際極年を開催することとした。

その後、第3回国際極年は地球全域を観測対象に含めることになったため、名称を「第3回国際極年」から「国際地球観測年(IGY)」へと変更する。

こうして、国際地球観測年(IGY)の開催が決定すると、国際学術連合会議は、国際地球観測年特別委員会(CSAGI)を設置して、各国へ国際地球観測年への参加を呼びかけたのである。

これを受けた日本学術会議は、国際地球観測年研究連絡委員会を設置した。日本学術会議とは、文部省が管轄している、日本の大学教授らで構成する学術機関である。

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南極物語-アメリカの圧力で南極観測へ

国際地球観測年(IGY)に参加する事になった日本は、東経140度地域の主責任国を務めることになり、赤道地帯に基地を建設する予定で計画を進めていた。

しかし、国際地球観測年特別委員会(CSAGI)準備会議で、赤道地帯を統治していたアメリカは、アメリカが赤道地帯に基地を建設するとの理由で日本の基地建設に反対し、日本へ南極観測を勧告した。

その一方で、アメリカは日本に「ロケットは提供するので、ロケット観測へ参加してはどうか」と言い、ロケット観測への参加を呼びかけた。

このため、計画の変更を余儀なくされた日本学術会議は、南極観測とロケット観測とについて協議を始める。

しかし、日本政府は原子力に予算を投入しており、南極観測に予算が下りる見通しは暗かった。

南極物語-朝日新聞の矢田喜美雄が南極学術探検隊を提唱」へ続く。

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