南極物語-朝日新聞の南極学術探検が国家事業へと発展した理由

樺太犬タロ・ジロで有名な「南極物語」の実話の第3話「朝日新聞の南極学術探検が国家事業へと発展した理由」です。

実話「南極物語」の第2話は「朝日新聞の矢田喜美雄が南極学術探検隊を提唱」です。

実話「南極物語」の目次は「南極物語-実話のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

南極物語-茅誠司の誤算

1955年(昭和30年)3月に朝日新聞社会部の記者・矢田喜美雄は国際地球観測年の開催の情報を入手し、朝日新聞が学者を支援して南極へと送る「南極学術探検」を提唱した。

この朝日新聞の事業として始まった「南極学術探検」が、間もなく、国家事業「南極地域観測」へと発展していくことになる。

なぜなら、朝日新聞の支援を受けた日本学術会議の茅誠司や東京大学の教授・永田武は、南極学術探検計画を進めていたが、朝日新聞1社の支援では南極へ行くのが難しいことが判明したからである。

日本学術学会の茅誠司は、2億円もあれば南極へ行けると考えていた。朝日新聞が1億円を拠出するので、大蔵省に1億円を出してもらえば、南極へ行けると考えていた。

ところが、各省庁と協議を重ねていくうちに、2億円では足りないことが判明してきた。

南極へ行くには、氷を割りながら進む「砕氷船」が必要なのだが、各国が南極へ行くので、外国から砕氷船が借りられない。

しかも、国内には、めぼしい船が無い事が判明したのである。

兎にも角にも砕氷船が無ければ、南極へ行くことは出来ない。

そこで、海上保安庁の島居辰次郎が見つけてきたのが、船齢18年になるボロボロの灯台補給船「宗谷(そうや)」だった。

日本が南極へ行くためには、宗谷を南極観測船にするしか術はなかった。

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南極物語-「南極学術探検」から「南極観測地域」へ

さて、日本学術学会の茅誠司は文部大臣の松村謙三に南極学術探検を報告し、支援を要請すると、松村謙三は協力を約束した。

しかし、文部省には南極を担当する部署がない。そこで、文部省は南極学術探検を手がけている朝日新聞に予算案の作成を依頼する。朝日新聞は急いで予算案を作成した。

その一方で、文部省は「探検」や「冒険」という要素を徹底的に嫌った。文部省は「南極探検には予算は出せない」と言い、名称を「南極観測地域」と決定する。

その結果、文部省の予算9億7500万円のうち、南極観測事業に7億5000万円が当たれられた(当時の国家予算は1兆円)。

こうして、南極観測事業は大きな予算を得ることができたが、予算を削られた部門は南極観測事業に激怒する。

日本は国際共同観測事業「国際地球観測年(IGY)」の9部門に参加しており、南極観測はその1部門に過ぎなかったのである。

国際地球観測年に参加する残り8部門は、大幅に予算を削られ、観測規模の縮小も余儀なくされた。

なお、南極観測事業の予算7億5000万円のうち、5億1286万5000円が宗谷の改造に当たられた。

南極物語-南極学術探検キャンペーンの開始

1955年(昭和30年)9月、長谷川万吉と永田武など数名が第2回南極会議(ブリュッセル会議)に出席し、日本は正式に南極観測に参加する事を表明する。

日本を除くと、参加国は全て戦勝国であり、第2次世界大戦で遺恨を持つオーストラリアとニュージーランドから猛反対を食らうが、なんとか南極観測への正式参加を認められた。

そして、日本は空白地帯となっていたプリンスハラルド海岸で観測することが決定する。

すると、1955年(昭和30年)9月27日、「本社、南極観測の壮挙に参加、全機能をあげて後援」の見出しが、朝日新聞の朝刊を飾る。

こうして、水面下で動いていた朝日新聞が日本の南極観測参加を報じ、学術探検のキャンペーンを開始したのだ。

通常なら、報道機関は他社が展開するキャンペーンには冷ややな対応を取るが、南極学術探検に関しては、どの報道機関も競い合うように南極学術探検を報道した。

このため、日本中の国民が南極学術探検に関心を示し、国民から多くの募金が集まり始めた。5円玉や10円玉を握りしめた子供達は、競うように募金し、全国に南極募金が広がっていく。

国民の反応は予想以上だった。日本学術会議の茅誠司らは多くの募金による混乱を解消するため、南極地域観測後援特別委員会を設置し、寄付の受け入れ機関を1元化する(ただし、朝日新聞は独自に募金を受け入れた)。

その一方で、茅誠司は大蔵省に寄付に対する免税を要請する。要請を受けた大蔵省は、「法人が南極地域観測後援特別委員会へ寄付した義捐金は、会計処理で損金に計上できる」との免税措置を決定した。

また、南極学術探検にともなう設営の購入については、全て「学術目的」とし、物品税(現在の消費税に相当)を免除(特例の適用)した。輸入品については関税を免除した。

免税措置の追い風を受けた茅誠司は、経済界に寄付金を依頼するとともに、各社に協力を要請した。

南極で越冬する越冬隊はに予算が計上されていないため、越冬隊に関する費用は義捐金でまかなわなければならない。兎にも角にもお金と支援が必用だった。

大々的なキャンペーンのおかげで、多くの義捐金が集まった。昭和31年度だけで、国民からの寄付金は、計1861万2644円も集まった。朝日新聞からの寄付金が1億98万587円で、経済界からの寄付金が計2291万8500円だった。口座へ入れていたので、金利も付いた。

現物の寄附も多かった。1000社を超える企業からの協力を申し出があった。国民の南極学術探検への期待は日増しに高まっていった。

その一方で、日本学術学会の茅誠司は、「サイエンティフィック・エクスペディションの訳なら間違いではないが、探検では冒険的な意味合いが含まれすぎている。正式に『南極地域観測』と呼んで頂きたい」と強く要請する。

しかし、世間は南極地域観測のことを「南極探検」や「南極学術探検」と呼ぶのだった。

南極物語-第1次越冬隊が発足した経緯」へ続く。

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