南極物語-第1次越冬隊が発足した経緯

樺太犬のタロ・ジロで有名な「南極物語」の実話の第4話「第1次南極越冬隊が発足した経緯」です。

実話「南極物語」の第2話は「朝日新聞の南極学術探検が国家事業へと発展した理由」をご覧ください。

実話「南極物語」の目次は「南極物語-実話のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

南極物語-永田武を第1次南極観測隊の隊長に任命

1955年(昭和30年)11月、日本政府は国際地球観測年への参加を閣議決定し、文部省に南極地域観測統合推進本部を設置した。

また、海上保安庁も灯台補給船「宗谷」を南極観測船へと改造するをことを決定した。

1955年12月、南極地域観測統合推進本部は、第1次南極観測隊(予備観測隊)の隊長に永田武を任命し、南極観測船「宗谷」の船長に松本満次を任命した。

第1次南極観測隊の隊長に就いた永田武は、東京大学の教授であり、地球磁気の研究でノーベル賞候補にも名前が挙がった程の学者で、国際地球観測年(IGY)の国際会議にも日本代表として出席するほど偉い人だった。

このため、永田武が南極観測隊の隊長に決定すると、国内やアメリカの学者から「永田先生を南極へ行かせるな。隊長から外せ」と苦情が殺到する程だった。

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南極物語-西堀栄三郎が副隊長に就任

南極観測隊の隊長・永田武らは、南極へ行くための準備に奔走するなかで、ある事に気付く。

1年間、南極で観測をするということは、南極で1年間、生活することになるのだが、南極で生活することなど、誰も考えていなかったのである。

南極で観測を行うの者は科学者ばかりだった。科学者は研究のために山に登ることはあるが、本格的な探検となると素人だった。

南極観測には設営のプロが必要だ。

困った茅誠司は、日本山岳会に相談すると、日本山岳会は京都大学山岳部出身のカリスマ探検家・西堀栄三郎(にしぼり・えいざぶろう)を推薦した。

西堀栄三郎は東京電気(現在の東芝)の元技術者で、東京電気時代に真空管「ソラ」を開発した人物だった。当時、ニッケルが不足していたため、トタン屋根を使って真空管「ソラ」を製造できるように工夫するほどのアイデアマンだった。

その一方で、西堀栄三郎はカリスマ探検家としても知られていた。西堀栄三郎は京都大学山岳部時代に桑原武夫や今西錦司らとともに、数々の山に上った登山家で、「雪山讃歌」の作詞も手がけていた。

また、西堀栄三郎は、後にネパール政府の要人となる学生を下宿させていた縁で、単身で鎖国状態が続くネパールに乗り込み、ネパール政府の要人からマナスル山の登頂許可を取りつけ、マナスル登頂に貢献した登山家だった。

それに、西堀栄三郎は日本で最も南極に精通した人物でもあった。

西堀栄三郎は明倫小学校時代に兄に連れられて、日本初の南極探検家・白瀬矗(しらせ・のぶ)陸軍中尉の講談を訊き、南極に対して強い憧れを持っており、アメリカ留学中に南極について学んでいたのである。

当時、極地研究と言えば北海道大学が最先端で、北海道大学出身の朝日新聞記者・加納一郎が極地研究の第1人者であったが、加納一郎は高齢だった。

越冬隊長の西堀栄三郎が日本を出発時の年齢が53歳と高齢だったが、加納一郎はさらに年上だったということもあり、日本山岳会は西堀栄三郎を推薦したのである。

(加納一郎は西堀栄三郎に南極行きについてアドバイスし、樺太犬の訓練などを担当している。)

西堀栄三郎は優れた先見の明があり、「真夜中のニワトリ」と呼ばれる人物であり、西堀栄三郎をおいて適任者はいなかった。

そこで、茅誠司は、西堀栄三郎を第1次南極観測隊の副隊長として迎え入れる。

こうして、西堀栄三郎が第1次南極観測隊に加わったことにより、南極観測事業の計画は大きく変わっていくのであった。

南極物語-第1次越冬隊の発足

第1次越冬隊を提唱したのは西堀栄三郎であり、西堀栄三郎が居なければ、第1次越冬隊は存在していなかった。

当初の南極観測計画には、第1次南極観測隊による越冬計画は含まれていなかったのである。

南極観測隊は現在も続いているが、当初の南極観測事業は、2年で終了する予定だった。

そもそも、南極観測は、1957年7月から1958年12月にかけて開催する国際地球観測年(IGY)にあわせて行う事業で、国際地球観測年の終了と共に日本は南極での観測を終了する予定だった。

「第1次南極観測隊」という名称は後から付けられた名前で、当時は第1次南極観測隊を「予備観測隊」と呼び、第2次南極観測隊を「本観測隊」と呼んでいた。

南極観測事業は2年で終了するので、「第1次」「第2次」などと付ける必要はなく、「予備観測隊」と「本観測隊」で十分だったのである。

それで、予備観測隊は、本観測隊のために南極に基地(昭和基地)を建設することが目的で、基地を建設したら帰国し、本観測隊が、国際地球観測年(IGY)の開催にあわせて南極で越冬し、南極を観察するという計画だった。

つまり、予備観測隊(第1次観測隊)は基地を建設するだけで、越冬する予定は無かったのである。

しかし、日本が割り当てられた南極のプリンス・ハラルド海岸は、大国アメリカやイギリスが7度の接岸に失敗し、「インアクセシブル(接岸不能)」と呼ばれた難所中の難所だった。

このため、副隊長に就任した西堀栄三郎が、「プリンス・ハラルド海岸の情報は全く無い。ぶっつけ本番で本観測隊が越冬することは危険だ。予備観測隊で越冬を経験し、情報を集めるべきだ」と主張した。

こうして、第1次南極観測隊での越冬計画が決定し、西堀栄三郎が第1次越冬隊の隊長に内定した。第1次越冬隊は、南極で機材のテストするモルモット(人体実験)だったのである。

南極観測隊が樺太犬の犬ぞりを採用した理由」へ続く。

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