南極観測船「宗谷(そうや)」が誕生したあらすじ

南極観測船「宗谷」が南極大陸を目指す実話「南極物語」のあらすじとネタバレの「南極観測船『宗谷(そうや)』が誕生」編です。目次は「実話『南極物語』のあらすじとネタバレ」です。

このページは「南極物語で中部日本新聞社の飛行機が墜落」からの続きです。

南極へ行くためには、南極観測船が必要だった。南極観測船とは、海面の氷を砕きながら進む「砕氷船(さいひょうせん)」のことだが、日本には本格的な砕氷船など1隻も存在していなかった。

国家事業「南極観測事業」が朝日新聞の「南極学術探検」だったころ、日本学術学会の茅誠司は2億円もあれば南極へ行けると考えていた。

朝日新聞が寄附する1億円で設営装備を揃えられるので、あと1億円もあれば外国の船が借りられるだろう、と。そこで、茅誠司は海上保安庁の島居辰次郎に南極観測船の選定を依頼していた。

島居辰次郎は調査を開始するが、海外に適当な船は無く、日本国内で船を調達することになる。南極観測船の新造はお金と時間の都合で不可能だった。

そこで、南極観測船へ改造する候補として3隻が挙がった。候補となった船は、海上保安庁の灯台保安船「宗谷」と、国鉄の鉄道連絡船「宗谷丸」と、大阪商船の旅客船「白龍丸」だった。

このうち、国鉄の宗谷丸が最有力だったが、いずれも金銭的に折り合いがあわず、島居辰次郎は老齢18年になる灯台保安船「宗谷」を南極観測船に改造することを提案していた。

もともと、宗谷は、ソ連(ロシア)通商代表部からの注文で松尾造船所が製造した耐氷輸送船「ボロチャエベツ号」だった。

しかし、戦況の悪化から松尾造船所はソ連(ロシア)との契約を破棄したため、「ボロチャエベツ」は1938年に貨物船「地領丸」として日本で就航することとなった。

その後、1940年に日本海軍が「地領丸」を購入し、北海道・宗谷岬の宗谷海峡から「宗谷」をとり、「地領丸」を「宗谷」と改名した。こうして、宗谷は、輸送や測量などを行う日本海軍の特務艦となった。

宗谷は戦地へ赴き、特務艦として南洋を駆け巡った。多くの戦艦が海の藻屑となったが、宗谷は運良く、戦火をくぐり抜けることができた。

ミッドウェイ海戦では敵潜水艦の魚雷が命中が命中したが、不発弾だったため、沈没を免れたこともあった。反対に魚雷を発射して潜水艦を沈めたこともあった。

やがて、終戦を迎えると、宗谷はGHQの管理下に置かれ、引き揚げ船として活躍した。そして、引き揚げ船としての役目を終えると、海上保安庁の灯台保安船へと転用された。

戦火をくぐり抜けてでボロボロになっていた宗谷は、いつ廃船になってもおかしくないなかったが、敗戦後の日本は物が不足していたため、宗谷は老骨に鞭を打って働いていた。

そのうななか、朝日新聞が後援する「南極学術探検」が持ち上がり、海上保安庁の島居辰次郎は、日本学術学会の茅誠司から、南極観測船の選定を頼まれた。

しかし、いずれの候補もお金の問題で折り合いが付かず、廃船間近だった灯台補給船「宗谷」を南極観測船へと改造こになるのでった。

海上保安庁の灯台保安船「宗谷」を南極観測船へ改造することが正式に決定すると、国は大阪商船(株)から「若草丸」を購入し、宗谷の代用船として灯台補給船へ編入してた。

やがて、宗谷は日本鋼管・浅野ドッグ(浅野船渠)で改造工事が行われ、砕氷能力1メートルを有する南極観測船へと生まれ変わった。

しかし、砕氷能力1メートルというのは、「これでプリンスハラルド海岸に接岸できる」という科学的な根拠を元に改造した結果ではなく、最大限に宗谷を改造して結果であり、これで南極へたどり着ける保証はどこにもなかった。

第1次南極観測隊は、宗谷の耐氷性と、潜水艦の魚雷(不発弾だった)が命中しても沈没しなかった宗谷の強運とに、夢を託す他に術はなかったのである。

日本鋼管浅野ドッグ(浅野船渠)と牧野茂のあらすじ」へ続く。