日本鋼管・浅野ドッグ(あさのドッグ)と牧野茂

日本鋼管・浅野ドッグが南極観測船「宗谷」を改造する実話「南極物語」のあらすじとネタバレの「日本鋼管・浅野ドッグ(浅野船渠)と牧野茂」編です。目次は「南極物語のあらすじとネタバレ」です。

このページは「南極観測船『宗谷(そうや)』が誕生したあらすじ」からの続きです。

海上保安庁の島居辰次郎が見つけてきたボロボロの灯台保安船「宗谷(そうや)」を南極観測船(砕氷船=さいひょうせん)に改造することになった。日本が南極へ行くためには、他に術は無い。

1955(昭和30年)11月10日、南極地域観測統合推進本部は、灯台保安船「宗谷(そうや)」を南極観測船として使用することを決定する。11月12日には、三菱横浜造船所にて宗谷の改造調査を開始する。

1955年12月23日、南極地域観測統合推進本部は、第1次南極観測隊の隊長に永田武を決定し、南極観測船「宗谷」に船長に松本満次を決定した。

1956年(昭和31年)1月12日、大阪商船株式会社から船「若草丸」を購入し、宗谷の代用船として灯台補給船に編入する。同年1月31日には、海上保安庁に宗谷設計審議会を設置した。

そして、1956年(昭和31年)2月13日、選定した業者を指定して、宗谷の改造工事の入札を行う。しかし、入札は無かった。

敗戦後、為替は1ドル-360円に固定され、造船業界は輸出が増加していた。加えて、1950年(昭和25年)の朝鮮動乱や1956年(昭和31年)の第2次中東戦争の影響で戦争特需が発生し、造船ブームが起こっていた。

好景気の造船業界は船を造ることで忙しい。改造は時間もかかるし、予算も少ない。ボロボロの宗谷を改造してくれる造船所など無かったのである。

1956年(昭和31年)2月14日、一部条件を変更して、再び宗谷の改造工事の入札が行う。しかし、再び落札企業は無かった。最低入札価格は、遙かに予算を超えていた。

最低入札価格を提示したのが、神奈川県横浜市神奈川区にある船の修理工場「日本鋼管・浅野ドッグ(浅野船渠)」だった。造船所ではなく、修理工場である。

海上保安庁の島居辰次郎は、最低入札価格を提示した「日本鋼管・浅野ドッグ(浅野船渠)」に頼み込み、日本鋼管・浅野ドッグの条件を組み入れ、随意契約へとこぎ着けた。

一方、宗谷の設計は、船舶設計協会の牧野茂(まきの・しげる)に依頼した。船舶設計協会は日本海軍の元技師たちが所属する団体で、牧野茂は「戦艦大和」の設計に携わった人物だった。

国民の夢を乗せて南極へ向かう宗谷の設計を担うのは、戦艦大和の設計に携わった牧野茂こそが適任だった。戦争に使われた能力が、国民の夢に役立つ。牧野茂は宗谷の設計を引き受けた。

砕氷船は特殊な構造でボロボロの宗谷を砕氷船へと設計するのは難しい注文だったが、牧野茂ら船舶設計協会は短期間で大量の図面を仕上げた。

そして、1956年(昭和31年)3月12日より、修理工場「日本鋼管・浅野ドッグ(浅野船渠)」で宗谷の改造工事が始まる。

職人は昼夜を問わぬ突貫工事を敢行。海上訓練のため浅野ドッグでの工事は同年10月10日に終了するが、職人は海上へ出た宗谷へ駆けつけて工事を続ける。

浅野ドッグは見事な職人魂で7ヶ月に渡る突貫工事により、宗谷を南極観測船へと生まれ変わらせたのであった。

浅野ドッグは見事な職人魂で7ヶ月に渡る突貫工事により、宗谷を南極観測船へと生まれ変わらせたのであった。「南極観測船『宗谷』が出発」へ続く。