昭和基地(越冬小屋)のネタバレは竹中工務店

芦峅寺5人衆の佐伯富男が南極で昭和基地を建設する「南極物語」のあらすじとネタバレの「昭和基地(越冬小屋)のネタバレは竹中工務店」編です。

このページは「第1次越冬隊が南極で越冬を開始」からの続きです。南極物語のトップページは「南極物語のあらすじとネタバレ」です。

南極観測船「宗谷」が南極・オングル島を離岸した1957年(昭和32年)2月15日には、オングル島の昭和基地に4つの建物が建っていた。

無線棟と食堂棟と住居棟の3棟は、竹中工務店が製作したプレハブ建築で、残りの1棟は発電機を設置した発電棟だった。

発電棟もプレハブ建築にする予定だったが、発電機が震動するため、鉄パイプで骨組みしたカマボコ型のテントになった。

南極で越冬するには、住居が大きな課題だった。昭和基地の建設地は南極のプリンスハラルド海岸に接岸してからも揉める始末で、日本にいる時点では、昭和基地を岩盤の上に建てるのか、氷の上に建てるのかすら、見当も付かない状態だった。

加えて、短い期間で基地を建設しなければならないうえ、昭和基地は風速50メートル超えるブリザードに耐え、マイナス40度の寒さから身を守る頑丈な建物である必要があった。

南極観測隊は基礎工事も出来ないし、短期間の訓練では本格的な大工仕事の習得も不可能だった。住居に関する問題は山積だった。

そこで、昭和基地の建設を担当する南極建築委員会が考えたのは、パネル式の壁を現地で組み立てる方法だった。

あらかじめ、壁や天井になるパネルを作っておけば、現地で組み立てるだけで建物ができる。現在でいうプレハブ建築である。

当時の日本にはプレハブ建築という言葉もなく、昭和基地の建物を「越冬小屋」と呼んでいた。この越冬小屋が日本初のプレハブ建築(南極1号)となり、工業製住宅の元となっている。

南極観測員会の浅田孝がプレハブ住宅(越冬小屋)を設計し、朝日木工(株)がパネルを製作した。そして、東京タワーを手がけた竹中工務店が昭和基地の製作を手がけた。

パネルには尾州檜でも北側の上質な部分を使い、パネルの間には、当時はまだ珍しい発泡スチロールを断熱材として入れた。

南極観測事業は「日本単独、全て国産(メイドイン・ジャパン・オンリー)」という方針で進めていたが、当時の日本には発泡スチロールや、それに相当する断熱材が無いため、ドイツのバディシュ社が生産する「スチロポールP」を採用することとなった。

南極では釘が使えないことを想定し、越冬小屋は日本古来の木組み技術を使って、釘を使わずに昭和基地を組み立てられるようになっていた。壁を組み立てて、留め金をはめるだけで、建物が出来た。

昭和基地(越冬小屋)の壁は遠くからでも認識できるオレンジ色を採用し、室内の壁は薄い青色を採用した。隊員の個室は2.5畳ほどの広さで、木目調の壁で仕切られていた。

室内の壁が青い理由は、精神を安定させるためだった。室内の壁の色が赤系だと、長い禁欲生活で発狂する人が現れる、というデータがあったからである。

プレハブ住宅と言えば安価なイメージがあるが、昭和基地(越冬小屋)は全てオーダーメイドだったうえ、手に入る最高級の素材を使っているため、超高級住宅だったのである。「南極でも冷凍庫が必要になる理由のネタバレ」へ続く。