宗谷が第1次越冬隊を収容するあらすじ

南極のオングル島に樺太犬のタロやジロを置き去りにする「南極物語」のあらすじとネタバレの「宗谷が第1次越冬隊を収容するあらすじ」編です。目次は「南極物語のあらすじとネタバレ」です。


このページは「南極観測船『宗谷』とバートンアイランド号」からの続きです。
1958年(昭和33年)2月7日午後3時30分、接岸への救援依頼に応じたアメリカの砕氷船「バートンアイランド号」が到着し、2月8日午前4時より昭和基地にへ向けて進み始める。
スクリューの羽1枚を損傷して満身創痍となった南極観測船「宗谷」は、バートンアイランド号の後について昭和基地を目指した。
こいつがアメリカの黒い船か。南極観測船「宗谷」の船長・松本満次は、バリバリと氷を割るバートンアイランド号の姿を見て、性能の違いをまざまざと見せつけられた。
バリバリと氷を割って昭和基地を目指すバートン・アイランド号であったが、厚い氷に阻まれ、これ以上の進行が困難となる。
バートンアイランド号は1958年(昭和33年)2月8日午後6時に前進を停止して、接岸となった。
第1次南極観測隊の時は昭和基地まで20kmのところで接岸できたが、第2次南極観測隊は昭和基地から110kmも離れた場所での接岸となった。
第1次南極観測隊の時はセスナ機「サチ風号」(セスナ180)だったが、第2次南極観測隊は宗谷にビーバー機「昭和号」(DHC-2型)を搭載しており、第2次南極観測隊は空輸が可能になっていた。
空輸が可能になったため、第2次南極観測隊の隊長・永田武は昭和基地から50kmまでであれば、輸送が可能だと考えていたが、想定よりも倍以上の距離での接岸となってしまう。
加えて、天候も悪い。既に離岸予定日2月1日を過ぎていた。本来ならもう南極を離れている時期だった。もう2月になっており、南極の夏は終わろうとしていた。あらゆる条件が最悪だった。
1958年(昭和33年)2月9日、第2次南極観測隊は第1次越冬隊11名を宗谷に収容することを決定して、昭和基地に「全員撤収」を通告する。
2月10日午後3時45分、第2次南極観測隊は天候が回復したことから、ビーバー機「昭和号」による第1次越冬隊の収容を開始する。
ビーバー機「昭和号」の積載量は300kgだった。行きは荷物を運び、帰りに越冬隊を順次に回収していく。数回の往復で、第1次越冬隊11名を回収することができる。
また、第2次南極観測隊は雪上車7台を有しており、雪上車による片道輸送も計画していた。
雪上車に物資を載せ、ヘリコプターの誘導で、昭和基地へ向かい、セスナ機で人間だけを回収する計画である。こうすれば、物資と雪上車を昭和基地へ送ることができる。
一方、昭和基地では第1次越冬隊が永田武の「全員撤収」命令に反発していた。全員が宗谷に引き揚げるだと?仕事の引継ぎはどうするんだ。
南極観測船「宗谷」付近は天候が荒れていたが、昭和基地では晴天が続いていた。第1次越冬隊員は宗谷側の状況が全く分からない。
第1次越冬隊の隊長・西堀栄三郎は、右腕としていた立見辰雄を南極観測船「宗谷」の偵察に送るが、立見辰雄からの連絡が来ない。
やがて、南極観測船「宗谷」からビーバー機「昭和号」がやってきた。第1次越冬隊は宗谷側の事情が分からないまま、順次、昭和号に乗って宗谷へと移る。
一方、第2次南極観測隊は第1次越冬隊の行動に困惑していた。全員回収命令をだしているにもかかわらず、第1次越冬隊は1人ずつしか帰ってこない。第1次越冬隊は何を考えているんだ。
隊長の永田武はヘリコプターで昭和基地へ飛び、西堀栄三郎に、「第1次越冬隊を全員撤収し、それから全力で第2次越冬隊を昭和基地へ送る計画」を説明した。
そして、永田武は2時間ほど昭和基地を視察する。第1次越冬隊は2年分の物資を荷揚げしており、ちょうど1年分が手つかずのままで残っていた。
第1次越冬隊の隊長・西堀栄三郎は統計的品質管理でデミング賞を受ているだけあり、昭和基地は良く管理されていた。
ビーバー機「昭和号」は何度も往復し、1958年(昭和33年)2月11日午後6時5分に第1次越冬隊の収容作業を完了する。
南極観測船「宗谷」は、第1次越冬隊11名、樺太犬の子犬6頭、猫1匹(三毛猫のタケシ)を収容した。収容した子犬6頭は、メス犬のシロ子が南極で出産した子犬である。
昭和号には積載制限があり、隊員らは観測資料も全て持って帰れない状態だったが、第1次越冬隊は犬係・菊池徹の提案により、南極観測とは関係のない子犬は日本に連れて帰ることを決めていたのだった。
しかし、樺太犬の成犬は、第2次越冬隊から「越冬を開始したら、犬ぞりを直ぐに使いたい」との要望があったため、昭和基地に鎖につないだままだった。
1958年2月12日、第2次南極観測隊は、第2次越冬隊を20名から9名へと減らし、輸送物資も大幅に縮小する。そして、第2次越冬隊3名を昭和基地へ送る。
ところが、2月13日になると、バートンアイランド号が、「天候が悪化しており、このままでは2船とも身動きがとれなくなる」と言い、外洋への脱出を宗谷へ通告する。そして、バートンアイランド号は外洋へ脱出する準備を始める。
スクリューを破損して性能を失った宗谷は、バートンアイランド号の助けがなければ、外洋へ脱出することは不可能だった。宗谷はバートンアイランド号と共にリュツオ・ホルム湾から離脱することを余儀なくされた。
1958年2月14日午後4時30分、第2次南極観測隊の操縦士・森松秀雄(朝日新聞の社員)が昭和号で昭和基地へ渡り、第2次越冬隊員3名を収容すると共に、メス犬1頭(シロ子)と残りの子犬2頭を収容する。この犬の収容劇にも物語があった。「南極物語-森松秀雄の奇跡のあらすじ」へ続く。」へ続く。

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