戦国最強のイケメン!木村重成の生涯

豊臣家の為に生きて、豊臣家の為に戦い、大阪に散った華と呼ばれる戦国最強のイケメン木村重成の生涯をあらすじとネタバレで描く「木村重成の生涯」です。

■木村重成は戦国最強のイケメン

真田幸村は、漫画やゲームの影響でイケメンになったが、史実の真田幸村は貧相な顔立ちで白髪が生え、歯も抜け落ちていたブサメンである。

しかし、木村重成は、史実でも背が高く、気品があり、美男子で、正真正銘のイケメンである。今回紹介するのは、戦国最強のイケメンと呼ばれる木村重成の生涯です。

■木村重成の自出について

木村重成の自出につては、下記の4説がある。
1・豊臣秀吉の家臣・木村常陸介(木村重茲)の子として生まれた。
2・近江の地侍・佐々木三郎左衛門の子として生まれ、木村常陸介(木村重茲)の養子となった。
3・近江の地侍・木村弥一右衛門の子か甥として生まれた。
4・紀州の地侍の子として生まれた。

ここでは、通説となっている木村重成は豊臣秀吉の家臣・木村常陸介(木村重茲)の子という説を紹介する。

■木村重成の誕生日について

木村重成の生年月日は不明たが、豊臣秀頼と同い年とされていることから、通説では文禄2年(1593年)生まれとされている。

しかし、「木村重成は23歳と言う説があるが、木村常陸介(木村重茲)が自害した時に1歳だったので、当年までに19歳であり、19歳というのが正しい」という記録もあり、文禄4年(1595年)生まれという説も有力である。

■戦国最強のイケメン木村重成の生涯

木村重成は、文禄2年(1593年)に生まれた。父親は、豊臣秀吉の家臣・木村常陸介(木村重茲)で、母親は宮内卿局である。

別説では近江の地侍・佐々木三郎左衛門の子として生まれ、木村常陸介(木村重茲)の養子となった。

父・木村常陸介(木村重茲)は、幼少より、豊臣秀吉に仕え、九州征伐や小田原征伐で活躍し、豊臣秀吉の側近となり、豊臣秀次付きの家老となった。

文禄元年(1592年)、豊臣秀吉は、養子・豊臣秀次に関白の座を譲って朝鮮出兵を開始するが、側室の淀君が文禄2年(1593年)8月に豊臣秀賴を出産する。

豊臣秀吉に待望の実子が誕生したが、既に養子・豊臣秀次に関白の座を譲っており、豊臣秀吉は生まれた実子・豊臣秀賴と関白・豊臣秀次の娘を結婚させようとするなど、対応に苦慮した。

そのようななか、文禄4年(1595年)、豊臣秀次に謀反の疑いが浮上し、豊臣秀次は高野山へと追いやられ、豊臣秀賴は自害する(秀次事件)。

(注釈:秀次事件のあらすじとネタバレは「秀次事件-豊臣秀次は殺生関白」をご覧ください。)

豊臣秀次付きの家老にあった父・木村常陸介(木村重茲)は、この秀次事件で豊臣秀次を弁護したことから、豊臣秀次に連座して切腹を命じられて自害した。

父・木村常陸介(木村重茲)の子供も自害・処刑になったが、木村重成は幼かったため、自害を免れた。母・宮内卿局は木村重成を連れて近江の馬渕村に落ち延び、木村重成は近江の太守・佐々木義郷に養育される。

豊臣秀吉の死後、木村重成の母・宮内卿局は淀君に招かれて大阪城へ入り、幼い豊臣秀頼の乳母となった。

このため、木村重成は豊臣秀頼と乳兄弟の関係に成り、幼少の頃から、豊臣秀頼の近習として仕え、やがて、豊臣家の重臣となった。

■木村重成と大坂冬の陣

慶長19年(1614年)、豊臣家が行う方広寺の開眼供養・堂供養の協議において、徳川家康は突如として方広寺の鐘銘に不快感を示し、豊臣家の家老・片桐且元は釈明に奔走する(方広寺鐘銘事件)。

(注釈:方広寺鐘銘事件については、「方広寺鐘銘事件のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

しかし、豊臣家は徳川家康と交渉に当たっていた片桐且元を追放したため、徳川家康は片桐且元の追放を徳川家に対する敵対行為として、慶長19年(1614年)10月に「大坂冬の陣」を発動した。

豊臣秀頼は豊臣恩顧武将に結集を呼びかけたが、応じる大名は居らず、全国に溢れていた牢人に金をばらまいて、牢人を大阪城に集めた。

こうした牢人のうち、元大名の長宗我部盛親・毛利勝永・真田幸村(真田信繁)の3人を「大阪牢人3人衆」と呼び、大名格である後藤又兵衛(後藤基次)とキリシタン明石掃部(明石全登)を加えた5人を「大阪牢人5人衆」と呼んだ。

(注釈:後藤又兵衛と明石全登が大阪牢人5人衆に加わる逸話は「大坂冬の陣-大阪牢人3人衆が大阪牢人5人衆になった理由」をご覧ください。)

さらに、大阪牢人5人衆に、豊臣家の大野長治と木村重成を加えた7人を「大阪7人衆」と呼んだ。

また、木村重成・真田幸村(真田信繁)・長宗我部盛親・後藤又兵衛(後藤基次)の4人を「豊臣秀頼の四天王」と呼んだ。

■木村重成の堪忍袋

木村重成は色白の美男子で、背も高く、気品があり、礼儀正しく、所作も美しく、武芸にも秀でていたが、初陣を果たしていなかったので、仲間から馬鹿にされる事があった。

現代風に表現すると、木村重成は誰もが憧れるイケメンの好青年で、スポーツ万能だったが、童貞だったため、仲間から馬鹿にされたという感じである。

しかし、木村重成は馬鹿にされても平然と受け流していたので、やがて茶坊主にも馬鹿にされるようになった。

ある日、大阪城で茶坊主が木村重成を馬鹿にすると、木村重成は笑いながら「汝を討つべきだが、汝を殺せば私も死罪になる。私は豊臣家の一大事に御用に立とうと思っている。代わりになる命が無いので、見逃してあげよう」と告げた。

翌年、木村重成は「大坂冬の陣-今福の戦い」で功績を挙げたので、みんなはこのときのことを思い出して、木村重成の心構えに感心した。

■木村重成が後藤又兵衛に師事する

木村重成は初陣を果たしていなかったので、仲間からも馬鹿にされることがあったが、本人は全く気にしいなかった。

「今福の戦い」の前日となる慶長19年(1614年)11月25日、大阪牢人5人衆の1人・後藤又兵衛(後藤基次)が偵察から戻ってきて、大阪城の東側にある鴫野・今福方面で戦闘が起こりそうな事を報告する。

すると、木村重成は後藤又兵衛(後藤基次)に童貞を告白し、「自分は若輩ゆえ戦闘の経験が乏しい。どうか戦闘に際しては存分にお引き廻しお頼み申したい」と頭を下げ、指揮を乞うた。

これに感心した後藤又兵衛(後藤基次)は、これ以降、木村重成に目を掛けるようになり、2人は親子のように接するようになった。

(注釈:後藤又兵衛の生涯のあらすじとネタバレは「後藤又兵衛(後藤基次)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

■木村重成の初陣「大坂冬の陣-今福の戦い」

大阪城の北東に鴫野村・今福村があり、今福村は大和川の北岸に、鴫野村は大和川の南岸にあった。

翌日の慶長19年(1614年)11月26日、後藤又兵衛(後藤基次)の報告通り、江戸幕府軍の佐竹義宣が大和川の北岸にある今福村へ、江戸幕府軍の上杉景勝が大和川の南岸にある鴫野村へ侵攻した。

豊臣軍は、大和川の北岸にある今福村に4重の柵を作り、矢野正倫・飯田家貞が300の兵で守っていた。

しかし、今福村を攻める佐竹義宣の先鋒・渋江政光と戸村義国は、第1柵・第2柵・第3柵を破し、豊臣軍の守将・矢野正倫は討ち死にした。佐竹義宣の先鋒は勢いに乗じて片原町まで迫った。

大阪城内に居た木村重成は、豊臣軍の敗報を聞くと、馬を後に引かせて1人で走り出した。急を要するので、自分の陣営に立ち寄るらず、「今福村へ出られよ」と言いながら自分の陣営を駆け抜けた。

家臣の大井何右衛門・平塚左助・平塚五郎兵衛は慌てて兵を率いて木村重成を追いかけ、片原町でようやく木村重成に追いついた。

佐竹義宣の先鋒は、大阪城から木村重成が出てきたので、第2柵まで退き、木村重成に応戦した。

そのとき、大和川の南岸にある鴫野村へ攻撃していた江戸幕府軍の上杉景勝の一手が援軍に駆けつけ、木村重成の側面から鉄砲で攻撃した。

大阪城でこれを観ていた豊臣秀頼が「重成を討たせるな」と下知すると、後藤又兵衛(後藤基次)が兵を率いて援軍に向かった。また豊臣秀頼は大阪城から大砲を撃たせ、木村重成を援護した。

木村重成は後藤又兵衛(後藤基次)の援軍を得て、江戸幕府軍・佐竹義宣の先手を第1柵まで押し返し、佐竹義宣の先手・渋江政光と揉み合った。

後藤又兵衛(後藤基次)は、側面から攻撃してくる上杉景勝の一手と銃撃戦を展開し、この銃撃戦で負傷する。

やがて、木村重成は佐竹義宣の先手・渋江政光に突撃して、渋江政光の部隊を壊滅させると、木村重成は単騎で追撃したが、敵の射撃を受けて近寄れなかった。

そこへ、家臣・井上忠兵衛が来たので、木村重成は家臣・井上忠兵衛に鉄砲を撃たせ、家臣・井上忠兵衛が鉄砲で佐竹義宣の先手・渋江政光を討ち取った。

(注釈:木村重成が槍を会わせて佐竹義宣の先手・渋江政光を討ち取ったという説もある。)

佐竹義宣は先手が崩れたので撤退を余儀なくされたが、大和川の南岸にある鴫野村へ侵攻していた江戸幕府軍の上杉景勝の手勢が援軍に駆けつけ、木村重成・後藤又兵衛(後藤基次)を側面から攻撃した。

これを受けた後藤又兵衛(後藤基次)が撤退を決断すると、木村重成は後藤又兵衛(後藤基次)の判断に同意した。

木村重成は撤退するとき、家臣・大井何右衛門の姿見えなかったので、「私が預かっている士を捨て殺しにしてしまっては、今後どうやって諸士の下知が出来るだろうか」と言って単騎で引き返し、死体が折り重なっている戦場で、倒れていた家臣・大井何右衛門を見つけ出し、馬を下りて助けた。

敵兵がそれを見て襲ってきたので、家臣・大井何右衛門は「自分を捨ててお引きください」と懇願したが、木村重成は「私はお主を迎えに来たのだ。敵が出たからと言ってお主を放り棄てて戻るくらいなら、初めから来ないだろう」と言い、槍を持って敵と戦う。

そこへ、木村重成の家臣30騎が駆けつけたので、木村重成は手負いの家臣・大井何右衛門を駆けつけた家臣に預け、木村重成自らが殿(しんがり=最後尾)を務めて撤退した。

こうして、木村重成は華々しい初陣を飾り、諸将や豊臣秀頼は木村重成を高く評価した。

後日、豊臣秀頼は木村重成を「日本無双の勇士」と評価し、感状と正宗の脇差しを与えると、木村重成は謹んで頂戴し、拝領した感状と正宗の脇差しを豊臣秀頼の前に置いて言った。

「この度の勝利は、私の武勇ではありません。お預け置かれた持ち口の兵士が命を捨てて戦いました。特に大野長治・後藤又兵衛・七手組が身を砕いて戦ってくれたおかげです。また、感状も私には必要ありません。感状は他の主君に仕えるときか、子孫が名高き感状を持って武士の誉れとする時の物です。豊臣秀頼様のご武運が開ければ、私も共に武運が栄え、過分の俸禄を頂くことになります。豊臣秀頼様のご武運が尽きるようなことがあれば、私も腹を掻き切って黄泉のお供を致し、冥土でも君と仰ぎ奉公するつもりです。ですから、褒美など頂戴する道理はありません」

木村重成はそう言って涙を流して感状と正宗の脇差しを返上すると、豊臣秀頼を初め、そこに居た人は皆、涙を浮かべた。

密かに大阪城を出ようと考えていた輩も、木村重成の言葉を聞いて「武士とは義によって名を立つべきものなり」と言い、心を改めた。

■木村重成が真田幸村に配慮する

真田家は関ヶ原の合戦の時の「犬伏の別れ」で東軍・西軍に別れており、西軍に付いた真田幸村は紀州の九度山に流され、大坂冬の陣で豊臣秀頼の呼びかけに応じ、大阪城に入った。

一方、東軍に付いた兄・真田信之は、関ヶ原の合戦の後、西軍に付いた父・真田昌幸の領土・信濃国小県郡上田(現在の長野県上田市)を拝領し、上田藩を立藩していた。

しかし、兄・真田信之は大坂冬の陣・夏の陣ともに病気で出陣できず、名代として嫡男・真田信吉と次男・真田信政を出陣させていた。

慶長19年(1614年)12月13日、大坂冬の陣のとき、木村重成の持ち場に、江戸幕府軍が鬨の声を上げて攻めてきた。

木村重成は櫓に登って一見した後、真田幸村の元へ行き「ただいま、私の持ち場に攻め寄せてきた関東勢の旗の紋が六文銭です。きっと御一家でしょう。それについて、お尋ね致します。ことのほか若輩な武者2騎が真っ先に進んで来て、弓や鉄炮をものともせず、兜を傾けて柵の外に取り付いています。どなたの子なんでしょうか?櫓からご確認ください」と尋ねた。

すると、真田幸村は「見るに及ばない。いかにも六文銭の旗は兄・真田伊豆守(真田信之)の旗である。先に進んで柵に取り付いているの若者は、1人は河内守(真田信吉)といって18歳、もう1人は外記(真田信政)といい17歳、2人とも我が甥である。哀れだが、2人を侍分の者に命じて討ち取ってください。10余歳にして木村殿の持ち口で討ち死にしたと申せば、後世に名が残り、一族の名誉になります」と答えた。

木村重成は「いや、そうではありません。一族が引き分かれての戦いに何のお咎めがありましょうか。必ず和睦になり、めでたく対面できるでしょう。御心底お察し致します」と言い、士卒に対して「鉄砲で真田信吉・真田信政を討ち取ることないように存分に注意いたせ」と命じ、真田幸村に配慮した。

■木村重成と大野治房の感状

大坂冬の陣のこと。大野主馬(大野治房)の傘下に居る塙団右衛門(塙直之)が、大阪城の西側に布陣する江戸幕府軍の蜂須賀至鎮に夜襲を掛けて手柄をあげた(塙団右衛門の夜討)。

(注釈:塙団右衛門の夜討のあらすじとネタバレは「夜討ちの大将 塙団右衛門(塙直之)の生涯」をご覧ください。)

そこで、大野主馬(大野治房)は木村重成を通じて感状を賜ろうとした。

話を聞いた木村重成が「感状は頂けるでしょう。ただ、貴方は感状を頂いて誰に披露するのでしょうか?槍1本で身を立てている身なら、他国の大名に仕官する時の面目になるでしょう。しかし、大野兄弟は大阪(豊臣家)の重臣たる身で、主君と存亡を共にするべき人です。何のための感状でしょうか」と尋ねると、大野主馬(大野治房)は恥じて言葉も無かった。

■木村重成と徳川家康の血判状

慶長19年(1614年)12月、徳川家康は大砲で大阪城を攻撃すると豊臣家は和睦に傾き、豊臣方は常光院・大蔵卿局が使者となり、徳川方は阿茶局が使者となり、女性主導で和睦の話し合いが進められ、大坂冬の陣は和睦が成立する。

慶長19年(1614年)12月21日、木村重成は豊臣秀頼の名代として茶臼山にある徳川家康の本陣を訪れ、徳川家康から血判状を受け取る。

このとき、徳川家康の血判状の血判が薄かったので、木村重成が血判の押し直しを求めると、徳川家康は「年を取って血が薄くなった。目もかすんで思うように付けない」と答えた。

徳川家の家臣は「木村重成が『それなら、血判は結構です』と遠慮するだろう」と思っていたが、木村重成は聞こえないふりをして、徳川家康に血判を押し直させた。

しかし、史実では、常光院・二局局・饗庭局の女性3人が慶長19年(1614年)12月20日に徳川家康の陣営を訪れて、徳川家康から誓紙を受け取っており、木村重成が徳川家康に血判を押し直させる逸話は後世の創作である。

史実の木村重成は、大野長治の使者として慶長19年(1614年)12月21日に茶臼山を訪れ、本多正純の案内で徳川秀忠に拝謁し、徳川秀忠から誓紙を受け取った。

このとき、木村重成の進退が礼儀作法に則り、所作が非常に美しかったので、徳川家から賞賛された。

■徳川家康の血判状(別説)

大坂冬の陣で和睦が成立すると、大野長治と木村重成は、豊臣秀頼の使者として、徳川家康の陣営を訪れた。

徳川家康は血判を押した神文を作成済みで、大野長治と木村重成へ渡した。大野長治は神文を受け取ろうとしたが、木村重成は「血判の筆元を確認したうえで、豊臣秀頼に報告したい」と言って神文を受け取らなかった。

徳川家康の家臣が木村重成を説得したが、木村重成は説得に応じなかったので、家臣が徳川家康に報告すると、徳川家康は「なんと無礼な奴だ」と怒った。

それでも、木村重成は「筆元を確認したい」と言い張るので、徳川家康は仕方なく、木村重成に筆元を見せ、改めて血判を押した。

大野長治と木村重成が神文を受け取って退室すると、徳川家康は「いまどき、珍しい若者だ」と言って木村重成に感心した。

その後、豊臣家のある人が、「木村重成が、それほど徳川家康に近づいて筆元を確認したのであれば、徳川家康に一太刀討たなかったのは残念だ。大野長治と2人かかりなら、徳川家康を討てたであろう。徳川家康さえ討てば、豊臣秀頼様の天下になる。木村重成も命が惜しいのだろう」と言った。

それを聞いた小早川能久は「大野長治と木村重成は命を惜しむような将でありません。徳川家康は天下の名将です。どうして、敵の臣を近づけたりするでしょうか。我々でさえ、その程度の事を思いつくのです。とうぜん、徳川家康の警護も気づいているでしょう。おそらく、徳川家康は上座に座り、中座には家臣が並び、木村重成は下座から筆元を確認したのでしょう。もし、木村重成が一太刀加えようとしても、徳川家康の家臣に討ち取られるに決まっています」と話した。

■木村重成が妻・青柳と結婚する

豊臣家の七手組頭の1人・真野頼包の娘・青柳は、淀君の側近として仕え、城中随一と歌われた絶世の美女であった。一方、木村重成は大阪城1のイケメンであった。

青柳は木村重成を偶然に見かけて一目惚れして恋の病で床に伏せてしまい、せめて思いを伝えようと思い、木村重成は下の歌を送った。

「恋わびて 絶ゆる命は さもあらはあれ さても哀と いふ人もかな」

(意味:恋に患って死んでしまうのであれば、それでも構いません。「哀れなことだ」と言ってくれる人も居るかもしれません)

すると、木村重成は次の歌を詠んで返した。

「冬枯の 柳は人の 心をも 春待てこそ 結ひ留むらめ(ゆいとどむらめ)」

(意味:冬枯れの柳はじっと耐えて春を待ち、やがて人の心を柳の糸で結びとめるだろう)

この歌が切っ掛けで、大阪城1のイケメン木村重成と、大阪城随一の美女・青柳は、慶長20年(1615年)1月7日に結婚した。

(注釈:木村重成の妻・青柳の生涯は「木村重成の妻・青柳の生涯」をご覧ください。)

■木村重成の心構え

大坂冬の陣は和睦が成立したが、行き場の無い牢人が大阪城に居座ったため、徳川家康は4ヶ月後の慶長20年(1615年)4月に大坂夏の陣を発動した。

木村重成は慶長20年(1615年)5月の初めより食欲が無かったので、妻・青柳は心配して「今度は落城するだろうと聞こえてくるので、食事が進まないのでしょうか」と尋ねた。

すると、木村重成は「そうではない。昔、後三年の戦い(平安時代の戦)に瓜割四郎(うりわりしろう)という者が居た。瓜割四郎は臆病者だったので、朝食が喉を通らず、敵陣にて首の骨を射切られたとき、傷口から食事が出て敵に恥をさらした。我らも首を取られるので、死骸が見苦しくならないように心がけて食事を慎んでいるのだ」と答えた。

それを聞いた妻は喜んで下がり、心に思っている事(青柳の遺書の現代語訳)を書き留めて、寝室に入って自害した。木村重成の妻・青柳は真野豊後守頼包(真野頼包)の娘で、このとき18歳であった。

(注釈2:木村重成の妻・青柳は妊娠していたので、大阪城の落城後に近江国蒲生郡馬淵村へと落ち延びて子を産んだ。その後、妻・青柳は出家し、木村重成の命日に自害した、とも伝わる。)

■イケメン木村重成とイケメン井伊直孝の戦い

大坂夏の陣を発動した徳川家康・徳川秀忠は、慶長20年(1615年)5月5日に京都を発して大阪へ入り、河内口から大阪へ入り、星田・砂に布陣した。

徳川家康・徳川秀忠は江戸幕府軍の本隊を率いて東高野街道を南下して、道明寺へ目指し、大和(奈良県)から迂回して大阪を目指す松平忠輝・伊達政宗の大和方面軍3万5000と合流する予定になっていた。

慶長20年(1615年)5月5日、大阪城を守っていた豊臣軍の木村重成と長宗我部盛親は、徳川家康・徳川秀忠の動きを察知し、道明寺へと向かおうと考えた。

しかし、既に豊臣軍の後藤又兵衛(後藤基次)や真田幸村が、大和(奈良県)から大阪へと侵攻してくる江戸幕府軍の松平忠輝・伊達政宗らを迎撃するため、道明寺に向けて出陣していた。

そこで、豊臣軍の木村重成と長宗我部盛親は、東高野街道を南下する徳川家康・徳川秀忠を側面から攻撃しようと考え、東高野街道の西にある若江村・八尾村へと向かうことにした。

慶長20年(1615年)5月6日午前2時に木村重成4500が若江村へ向けて出陣した。長宗我部盛親5000は2時間送れて同日午前4時頃に八尾村へ向けて出陣した。

時を同じくして、8km南にある道明寺では、濃い霧の影響で豊臣軍の真田幸村・薄田隼人(薄田兼相)らが遅刻したため、後藤又兵衛(後藤基次)が1人で江戸幕府軍の大和方面軍と戦闘を開始していた。

木村重成・長宗我部盛親は南方から聞こえてくる銃声を尻目に若江村・八尾村へ兵を進めた。

一方、江戸幕府軍の先鋒・藤堂高虎は東高野街道を南下して道明寺に向けて進軍する予定になっており、夜が明ける前から、準備を始めていた。

慶長20年(1615年)5月6日午前4時時ごろ、藤堂高虎は、物見から「八尾・若江方面から人馬の音がする。こちらに近づいているようだが、霧が濃いので詳しい事は分からない」という報告を受ける。

藤堂高虎は昨夜の軍議で勝手な戦いを禁じられていたので、徳川家康の指示を仰ぐため、砂にある徳川家康の本陣へと向かった。

しかし、その途中で霧が晴れてきて、八尾村から若江村にかけて豊臣軍が布陣している様子が分かったので、藤堂高虎は「もはや一刻の猶予も無し」として自陣に引き返し、戦の準備を始めた。

そこへ、藤堂良勝が来て「豊臣軍は我らの方ではなく、若江へと向かっている。徳川家康・徳川秀忠の本陣を突こうとしているのではないか。横槍を入れるべきだ」と攻撃を主張した。

これを受けて藤堂高虎は、右先手の藤堂良勝・藤堂良重を若江村に布陣する木村重成へと差し向け、左先手・藤堂高刑を、八尾村に布陣する長宗我部盛親へと差し向けた。

さて、大阪城を午前2時に出陣した豊臣軍の木村重成が、若江村に到着したのは午前5時頃のことであった。

木村重成は前年の大坂冬の陣で初陣を果たし、戦の童貞を卒業したものの、実践経験が少ないため、濃い霧の影響で進路を見失い、若江村への到着が遅れたのである。

木村重成が若江村に到着したとき、江戸幕府軍の先鋒・藤堂高虎は、既に木村重成や長宗我部盛親の進軍を発見しており、西へと兵を転進させ、若江村と八尾村へ向けて兵を進め始めていた。

若江村に到着した木村重成は、兵を3手に分け、右翼は藤堂高虎に備えさせ、左翼を奈良街道に備えさせ、木村重成本隊は江戸幕府軍の先手・井伊直孝に備えた。

木村重成の右翼の長屋平太夫・佐久間正頼らは、藤堂高虎の右先鋒・藤堂良重と遭遇してこれを撃破し、さらには右先鋒・藤堂良勝と3度にわたる激しい銃撃戦を繰り広げた末、藤堂良勝を討ち取り、藤堂勢の半数を討ち滅ぼした。

木村重成の右翼は勢いに乗じて進軍しようとしたが、木村重成は右翼の進軍を制すると、鉄砲隊360を玉串川の堤防に潜ませ、木村重成は若江村の南端で食事を済ませ、敵が来るのを待ち構えていた。

飯島三郎右衛門は右翼の勝利を受けて「この手柄を持って、大阪城へ引きましょう」と撤退を勧めたが、木村重成は「未だに徳川家康・徳川秀忠の首を取っていない」と拒否した。

そして、木村重成は兜の緒の端を切り落とし、「再び兜を着る事が無い」という討ち死にの覚悟を示した。

さて、江戸幕府軍の先鋒・井伊直孝は、東高野街道を南下して道明寺に向けて進軍する予定だったが、藤堂高虎からの連絡を受けて西へと転進し、若江村に布陣する木村重成を攻めた。

井伊直孝は、徳川の精鋭部隊「赤備え」で有名な徳川四天王・井伊直政の次男で、戦国時代を代表するイケメンである。

父・井伊直政は美少年(イケメン)だったことから、徳川家康に寵愛され、一説によると、井伊直政は徳川家康と肉体関係(衆道=ホモの関係)があった。

井伊直孝も父・井伊直政に似てイケメンだったので、肉体関係は不明ながらも、徳川家康に寵愛されており、井伊直孝は次男だったが、徳川家康の鶴の一声により、長男・井伊直勝を差し置いて父・井伊直政の跡目を継いだ。

さて、こうして、大坂夏の陣において、戦国最強のイケメンと謡われた2人のイケメンが若江村で激突したのである。

井伊直孝の先鋒・川手良利は玉串川を渡って左岸に駆け上り、木村重成の鉄砲隊に一斉射撃をして退けると、前年の真田丸の戦いでの汚名を晴らすため、決死の覚悟で、木村重成の軍勢に向かって突撃した。

木村重成は井伊直孝の先鋒・川手良利をあぜ道に誘い込んで討ち取ると、井伊直孝の右先鋒・庵原助右衛門が1000の軍勢で木村重成勢を攻撃した。赤備えの井伊直孝も先手の敗戦に怒り、本隊を突入させたので、両軍は大混戦となった。

やがて、木村重成の軍勢で裏崩れ(部隊の後方から崩れて行く最悪のケース)が発生し、木村重成の兵は半数が退いてしまったが、木村重成はそれでも進撃を続けた。

家臣・青木四郎左衛門と早川茂太夫は、「お引きください」と言って木村重成に撤退を求めたが、木村重成はこれを聞き入れず、青木四郎左衛門と早川茂太夫を振り切って前へと進んだ。

やがて、木村重成は井伊直孝の家臣・庵原助右衛門と一騎打ちになる。庵原助右衛門は木村重成の白母衣(白いマント)に十文字の槍をかけて引き倒すと、木村重成は田んぼにうつ伏せに倒れた。

庵原助右衛門の歩徒侍2~3人が木村重成を起こそうとしたが、起きなかったので、そのまま木村重成の首を討ち取った。

木村重成は享年23であった。ただし、木村重成は享年35、もしくは享年19という別説もある。

そこへ、井伊直孝の家臣・安藤長三郎(安藤重勝)が現れた。安藤長三郎(安藤重勝)は徳川家康の重臣・安藤帯刀の甥で、庵原助右衛門の傘下に居た。

安藤長三郎(安藤重勝)が「今日は手柄が無いので、首を譲って頂きたい」と頼むと、庵原助右衛門は「私はこの程度の首では手柄にならない」と言い、木村重成が付けていた白母衣(白マント)に首を包んで安藤長三郎(安藤重勝)に与えた。

■木村重成の首実検

東高野街道を南下した徳川家康・徳川秀忠は、慶長20年(1615年)5月6日午後6時ごろに枚岡に達し、「八尾・若江の戦い」の結果を聞いた。

江戸幕府軍の藤堂高虎・井伊直孝の死者は計400、豊臣軍の木村重成・長宗我部盛親の死者は計880を超えており、徳川家康の元には続々と豊臣軍の首が送られてきていた。

井伊直孝の士・安藤長三郎(安藤重勝)が木村重成の首を届けると、徳川家康は木村重成を討ち取った時の様子を尋ねたので、安藤長三郎(安藤重勝)は謹んで木村重成を討ち取った時の様子を報告した。

安藤長三郎(安藤重勝)が下人2~3人を連れて芦原を通っていると、「敵か味方か」と問う声がした。

安藤長三郎(安藤重勝)が声の方を見てみると、1人の侍が床几(折りたたみ式の腰掛け)に座り、下人4~5人と並んでいたので、「私は掃部頭(井伊直孝)の士で、生年17歳。敵ならば神妙に勝負せよ」と告げた。

すると、木村重成は「思うところがあって名は名乗れぬが、私は豊臣秀頼様の為に命を捧げる者である。我が首を取って功名にせよ」と言い、首を差し出した。

安藤長三郎(安藤重勝)は「武士の道に戦わずして首を取る法は無し、槍を合わせて天に運をまかせられよ」と告げた。

木村重成は「まことに誤りであった」と言い、槍を取り、床几(折りたたみ式の腰掛け)の上で居直りもせず、安藤長三郎(安藤重勝)と2度、3度の槍を合わせると、槍を捨て、「士の道もこれまでなり。さぁ、私を討て」と言うので、安藤長三郎(安藤重勝)は木村重成を討って首を取った。

安藤長三郎(安藤重勝)が木村重成を討ち取ると、彼の下人4~5人は逃げてしまった。

木村重成を討ち取った時の様子を報告した安藤長三郎(安藤重勝)が徳川家康に「このような経緯なので、拾い首なのですが、木村重成の首と判明したので、お届けに上がりました」と付け加えると、徳川家康は「若いのに正直に申すことは、武士の本望なり」と褒め、井伊直孝に3000石を与えるように命じた。

しかし、その後、安藤長三郎(安藤重勝)は井伊直孝から500石しか加増して貰えなかったので、「敵の大将を討ち取ったのに、500石しか加増してくれない」と不服に思い、井伊家を退いた。

ところが、叔父・安藤帯力がこれに激怒して安藤長三郎(安藤重勝)を叱り飛ばし、安藤長三郎(安藤重勝)を井伊家に追い返した。

■木村重成の死の美学

木村重成は慶長20年(1615年)5月初めから風邪を引いていて長髪で居たが、出陣する前日の慶長20年(1615年)5月5日に風呂に入り、髪を洗い、香を炊き込め、江口の曲舞「花の春の朝」を静かに舞い、余念無く小鼓を打った。

木村重成は明けて5月6日、徳川家康の本陣を横から攻撃するべく、若江村に出陣し、「若江の戦い」で、江戸幕府軍の先鋒・井伊直孝と戦って討ち死にする。

徳川家康は木村重成の首を検分したとき、木村重成の髪にしみこんだ香を嗅いで、「5月の初めだというのに、僅かな悪臭もなく、香を焚き込んでいるのは勇者の良い嗜みである。皆の者、近くへ来てこの首を嗅ぎなさい」と感心したので、みんなは近寄って木村重成の首の臭いを嗅いで賞賛した。

また、徳川家康は、木村重成の兜の緒の端が切ってあったのを見て、討ち死にを覚悟した晴天たる勇将であると賞賛した。(注釈:兜の緒の端を切っると2度と着れないため、討ち死にを覚悟するという意味になる)

ある人が「これほどの嗜みがあるのに月代(頭の天辺を剃り落とした部分)が伸びているのは、なぜでしょうか?」と囁くと、徳川家康はそれを聞いて「このように最期を磨く木村重成の月代が伸びているのは、理由がある。月代の剃り立ては兜の据わりが悪い。おそらくそういう理由だろう。希代の壮士が討ち死にしたのに、そのような些細なことを非難するものではない」と注意した。

なお、真田幸村(真田信繁)の生涯については「真田幸村(真田信繁)の生涯」をご覧ください。

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