実話「南極物語」の雪上車の歴史

実話「南極物語」のあらすじとネタバレシリーズ「南極観測隊と雪上車と樺太犬の犬ぞりの歴史」編です。実話「南極物語」については『実話「南極物語」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。


■雪上車の歴史
1940年代後半、新潟県は雪の上で車を走らせるため、雪上車の研究に着手する。
長野県は1950年に軽戦車の改造した雪上車を試作し、試験運用を行うが、失敗に終わり、1951年8月に大原鉄工所に雪上車の開発を発注する。
大原鉄工所はアメリカ軍の水陸両用車「M29Cウィーゼル」をベースに雪上車の研究開発を行い、1951年末に雪上車「吹雪号」を完成し、1952年3月から警察へ納品を開始した。
一方、池貝自動車製造(株)は警察の要請を受け、1952年に雪上車の開発に参入。1952年12月に小松製作所(コマツ)が、池貝自動車製造(株)を吸収合併して、雪上車の開発を引き継ぐ。
小松製作所もアメリカ軍の水陸両用車「M29Cウィーゼル」をベースに、1953年1月に小型雪上車「KC20-1」を開発する。
そして、1953年12月には小型雪上車「KC20-2型」(定員9名)のプロトタイプを開発し、1954年12月には量産型雪上車「KC20-3型」を開発する。
1955年(昭和30年)11月、南極地域観測が正式に決定する。1956年2月に南極地域観測機械準備委員会を設置し、雪上車についての選定が始まった。
アメリカの雪上車「スノー・キャット」も候補に浮上するが、南極観測隊は「日本単独」「全て国産品」という方針があり、小松製作所のKC20「ぎんれい」を使用することとなった。第1次南極観測隊が使用した雪上車は次の計4両である。
■第1次南極観測隊の雪上車
KC20-3S型ガソリン車(トヨタF水冷ガソリンエンジン)…2両
KC20-3R型レッカー車(トヨタF水冷ガソリンエンジン)…1両
KD20-1T型トルコン車(いすゞAD220水冷ディーゼルエンジン)…1両
燃料を軽油に統一するため、全車両ディーゼル車にする予定だったが、当時は雪上車は始動の良さからガソリンエンジンしか採用しておらず、ガソリン車を中心に編成することとなった。
ディーゼルのトルクコンバーター車の使用実績はなかったが、ディーゼルエンジンを昭和基地に設置する発電機へ転用する実験車として、KD20-1T型(ディーゼル車)1両を試験的に導入した。
第1次南極観測隊は、いすゞ自動車の発電機「13型20KVA発動電動機」2機を採用しており、KD20-1T型のエンジンが「いすゞAD220水冷ディーゼル」であることならどから、いすゞ自動車の大塚正雄が機械担当として第1次越冬隊に参加している。
■いすゞのエンジン
いすゞ自動車の発電機「13型20KVA発動電動機」と「いすゞAD220水冷ディーゼルエンジン」は、いすゞ自動車のエンジンを南極仕様に改造したもので、主要部品に互換性があるため、修理部品の削減に有効であった。トルクコンバーターはいすゞの「MT21A型」だだった。
また、エンジンの蓄電池は古河電気(株)の協力により、JIS4D型を南極仕様へと改良し、潤滑油は日本石油(株)の協力により、南極仕様へと変更している。
■第1次越冬隊の雪上車の活躍
雪上車は、接岸した南極観測船「宗谷」から昭和基地までの物資の輸送に活躍した。しかし、パドル(氷に出来た池)に水没するなどして、苦労も多かった。
また、物資の輸送に酷使した影響や極寒による不具合も多く、越冬中の調査については雪上車よりも樺太犬による犬ぞりが有効だった。ボツンヌーテン調査は雪上車で行う予定だったが、雪上車の不調により、犬ぞり隊へ切り替えている。
第1次越冬隊が昭和基地で越冬した結果、無線機を動かすため、発電機は最重要機材であり、雪上車のエンジンを発電機に転用する試みは、非常に有益であった。
また、操作性や燃費やトラブルの少なさから、ディーゼルエンジンを採用したKD20-1T型の有効性が認められた。
このため、第2次南極観測隊は、KD20-1T型を改良したディーゼルコルトン車を中心に雪上車7両を採用することになった。
■第2次南極観測隊の雪上車
KD20-2Tウィンチ付きコルトン車(いすゞAD220水冷ディーゼル)5両
KC20-3Sガソリン車(トヨタF水冷ガソリンエンジン)2両
■第2次南極観測隊の雪上車の活躍
1958年(昭和33年)2月8日、第2次南極観測船「宗谷」はバートンアイランド号の救援を受けて、昭和基地から110km地点に接岸する。
その後、第2次南極観測隊は、小型飛行機「昭和号」(ビーバー機・DHC-2型)で昭和基地に居る第1次越冬隊の収容を開始する。
一方、2月11日には、雪上車「KC20-3S」2両による片道輸送を開始。雪上車はヘリコプターの先導により、34kmほど進むが、氷の状態が悪く、ルートが見つからないため、雪上車による片道輸送は中止となった。
第2次南極観測隊は、第2次越冬隊の成立に失敗し、樺太犬タロ・ジロ・リキなど15頭を置き去りにする。雪上車も活躍することなく帰国している。
■第3次南極観測隊の雪上車
KD20-2Tウィンチ付きコルトン車(いすゞAD220水冷ディーゼル)5両
KC20-3Sガソリン車(トヨタF水冷ガソリンエンジン)1両
第3次南極観測隊は、第2次南極観測隊の失敗を踏まえ、メーンの輸送手段を空輸とし、軍用ヘリコプター「シコルスキーS58型」2機を搭載していた。
第3次南極観測船「宗谷」は昭和基地から140km地点での接岸となったこともあり、雪上車による輸送は行われず、KC20-3Sガソリン車1両を分解して、昭和基地へ空輸した。
■樺太犬による犬ぞりと雪上車
雪上車は氷に出来た池(パドル)や氷の割れ目(クラック)に苦労したほか、低温による不具合が問題となった。
一方、樺太犬はパドルやクラックを避ける能力を有しており、調査旅行には樺太犬による犬ぞりが適していたが、積載量に難があった。
当初の各地調査には、樺太犬による犬ぞりが活躍していたが、雪上車は改良を重ねるごとに性能が良くより、やがて樺太犬は愛玩犬としての役割が大きくなっていった。
しかし、小型雪上車「KC20」では南極点への到達が困難と判明し、1965年(昭和40年)に大型雪上車「KD60」を開発。第7次越冬隊が南極1号「KD60」を使用する。
そして、1968年12月19日に、村山雅美の第9次越冬隊が雪上車「KD60」で、日本として始めて南極大陸の南極点へ到達する(往復で5000km)。
■雪上車の功績
日本が南極観測に参加することが決まった1955年(昭和30年)当時、世界で雪上車を造っているのは、アメリカとカナダと日本だけだった。
フランスのような自動車先進国でさえ、国産の雪上車を持たず、アメリカの雪上車を使用した。にもかかわらず、自動車後進国の日本が雪上車を製造していたことは特筆すべき事である。
第2次世界大戦で敗れたため、日本は一時期、飛行機開発が禁じられていた。このため、飛行機を中心に国産品で賄えない装備も若干あったが、日本は5000点以上の装備を国産品で調達した。
このように、ほとんどの装備を国産品で揃えられるのは、アメリカやソ連(ロシア)のほかには、日本だけだった。
敗戦国の日本が国産品で装備を揃えたことについては、戦勝国をも驚かせた。日本の雪上車は他国の観測隊から注目を集め、直ぐにオーストラリア隊から雪上車の注文があるほどであった。
このように、雪上車は物資の輸送以外の面でも日本に大きな貢献をしたといえる。
実話「南極物語」で樺太犬タロ・ジロ・リキなど15頭を置き去りにする経緯は、「樺太犬タロ・ジロ・リキを昭和基地に置き去りにした経緯」をご覧ください。

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