日向ユキ(ひなた・ゆき)のwiki

実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズの番外編。新島八重の幼なじみ日向ユキ(ひなた・ゆき)の生涯のあらすじとネタバレを紹介するwikiです。

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■日向ユキ(ひなた・ゆき)のwiki
日向ユキ(ひなた・ゆき)は寛永4年5月15日(1851年6月14日)、会津藩若松城下米代3ノ丁で、父・日向左衛門と母「日向ちか」の3人目の子供(長女)として生まれる。

日向ユキは「日向ユキ」が本名だが、日向ユキは子供の頃は「日向よし子」と名乗っていた。日向は「ひなた」と読み、「ひゅうが」「ひむかい」は間違い。

■日向ユキの家族のwiki
父の日向左衛門は御旗奉行で400石の上級藩士。実母の日向ちかは、2男2女を産み、日向ユキが3歳の時に病死している。その後、有賀豊之助の妹・有賀秀が後妻として入り、男子4人を出産している。

■日向ユキの親族のwiki
父方の従兄弟には会津藩士・柴五郎が居り、母方の従兄弟には飯沼貞吉が居る。母の姉は、西郷頼母の夫人・西郷千重子であり、日向家は会津藩でも由緒正しい名家である。

注釈:柴五郎は後に日本陸軍の軍事参謀官などを務めた人物である。飯沼貞吉は山本八重に砲術を学び、年齢を偽って白虎隊(士中二番隊)に入隊し、飯盛山で白虎隊19人と共に自害したが、1人だけ生き残った人物である。

■日向ユキの幼少期のあらすじ
日向左衛門はしつけに厳しく、後妻の有賀秀にも実子と義子との差別を許さなかったため、日向ユキは可愛がられもせず、疎まれもしなかった。

このため、日向ユキは自宅の空気になじめず、隣家の高木家で過ごすことが多かった。

隣にある高木家の父は既に死んでおり、長男の高木盛之輔(せいのすけ)が家督を継ぎ、祖母と母と姉・高木時尾(ときを)の計4人が生活していた。

姉の高木時尾は、若松城に籠城したさい、山本八重の髪を切り落とした人物である。

日向ユキの自宅の斜め裏には、山本八重(日向ユキより6歳年上)の自宅があり、日向ユキ・高木時尾・新島八重の3人は幼なじみだった。

高木家では高木家の祖母が裁縫を教えており、日向ユキや山本八重も高木家で裁縫を学んだ。高木家の祖母は盲人だったが、何でも出来る人だったという。

■日向ユキと会津戦争のあらすじ
1868年、日向ユキが18歳の時に会津戦争が勃発。1868年10月8日(慶応4年8月23日)早朝、入城を促す早鐘がなったため日向ユキは若松城へ入城しようとしたが、新政府軍は城下町まで迫っており、既に若松城の門は閉ざされていた。

このため、日向ユキは、先に入城させた弟と生き別れになり、祖母・義母・弟2人・妹1人の計6人で市外へと逃げ、御山在に住む百姓の肝煎栗城伝吉の世話になる。そして、日向ユキは肝煎栗城伝吉の所で敗戦を迎えた。

■父・日向左衛門のwiki
父・日向左衛門は御旗奉行を務めていたが、町奉行の風紀の乱れを正すため、戊申戦争の直前に自ら望んで町奉行に降格してた。

1868年10月8日(慶応4年8月23日)早朝、若松城下に早鐘が鳴り響くなか、戸ノ口原の会津軍を蹴散らした新政府軍は、一気に若松城の城下町になだれ込んできた。

父・日向左衛門は町奉行として馬に乗って出陣。日向左衛門は大町口郭門を守り、新政府軍と戦った(大町口郭門の戦い)。

日向左衛門は馬を撃たれたため、馬を下りて奮闘していたが、敵の攻撃を受けて負傷。敵に討たれることを恥じた日向左衛門は、祖母の実家である加須谷邸の竹藪に逃げ込み、竹藪の中で自害した

会津藩降伏後の翌年、父親の遺体を探していた日向ユキは加須谷邸の竹藪でようやく、ボロボロになった日向左衛門の紋付きと頭蓋骨とを発見。義母の有賀秀も日向左衛門に間違いないと認めたため、浄光寺に埋葬した。

■兄・日向新太郎のwiki
若松城の籠城戦が始まると、兄の日向新太郎(20歳)は遊撃二番隊(相澤隊)の中隊頭として出陣し、若松城の城下町を転戦していた。

1868年10月23日(明治元年9月8日)、日向新太郎は、新政府軍が占領する飯寺を攻めるために出陣し、日向新太郎の部隊は材木町の柳土手で新政府軍と銃撃戦となる(飯寺の戦い)。

日向新太郎は腰を撃たれてもなお、敵を狙撃していたが、肩を打たれて鉄砲が撃てなくなると、部下に介錯を命じて自害した。

敵軍に包囲された部下は日向新太郎の首を稲田にあった稲束に隠して逃げたが、その後、犬が日向新太郎の首を咥えて持ち出したため、処分に困った村人が日向新太郎の首を川に捨ててしまった。

部下から兄・日向新太郎の最後を聞いた日向ユキは、村人が捨てた日向新太郎の首を探し出し、浄光寺にある父・日向左衛門の墓の隣に埋葬した。

■敗戦後の日向ユキのあらすじ
会津藩の降伏後、女子供は無罪放免となったが、会津藩士の自宅は藩が所有している物だったため、新政府軍に没収され、会津藩士の家族は帰る自宅が無くなった。

このため、新政府軍は藩士の家族に塩川周辺の農地を割り当て、「帰農」を勧めた。会津藩の廃藩にともない、会津藩士は藩士の身分を失ったため、会津藩士の家族も「帰農工商」しなければならなかった。

入城できずに市外に逃れ、農民・肝煎栗城伝吉の世話になっていた日向ユキは、会津藩の敗戦後も御山在に留まり、肝煎栗城伝吉の世話になる。そして、日向ユキは仕事を手伝いながら、食料を貰い、御山在で1年を過ごした。

敗戦から1年後の1869年12月5日(明治2年11月3日)、松平容保の実子・松平容大に家名存続が許される。

松平容大が青森県東部で斗南藩(となみはん)を立藩すると、謹慎が解けた会津藩士が続々と斗南藩へと向かった。このとき、日向ユキの一家も20日をかけて、会津から斗南藩へ入った。

日向ユキは斗南藩領の野辺地村で、針仕事などしながら暮らしていたが、義母の有賀秀が奉公先の関係で青森へ行くことになったため、日向ユキらも青森へ移った。

■日向ユキの結婚のネタバレ
日向ユキが青森で住んでいるとき、北海道函館に住む雑賀繁村(雑賀孫六)夫婦が2人とも病気で困っているから手伝いに来て欲しいと頼まれた。

雑賀繁村の妻・雑賀浅(さいが・あさ)は、会津藩家老・簗瀬三左衛門の娘で、日向ユキと雑賀浅の2人は旧知の仲だった。

1872年3月(明治5年2月)、日向ユキはこの話を引き受け、青森から函館へ向かう。そして、雑賀家で奉公を始める。

その後、札幌の開拓使・内藤兼備が函館へ出張してくる。このとき、内藤兼備は雑賀繁村の自宅を訪れ、「会津の女性を嫁に欲しい」と希望した。

そこで、雑賀夫婦の世話をしていた、会津出身の日向ユキに結婚の話が持ち上がる。

内藤兼備は戊辰戦争にも従軍していた元・薩摩藩士だった。会津藩と薩摩藩は犬猿の仲になっていたが、日向ユキは内藤兼備との結婚を決めた。

そして、1872年12月3日(明治5年11月3日)、北海道・札幌で祝言を挙げ、日向ユキは内藤兼備と結婚した。

■山川捨松の結婚よりも早かった
薩摩藩士と会津藩士の結婚といえば、薩摩藩士の大山巌と会津出身の山川捨松の結婚が有名だが、大山巌と山川捨松の2人が結婚したのは1883年(明治16年)11月8日である。

日向ユキが内藤兼備と結婚したのは1872年12月3日(明治5年11月3日)なので、大山巌と山川捨松の結婚よりも、11年も早く結婚している。

戊申戦争以降で、犬猿の仲となった薩摩藩出身と会津藩出身とが結婚したのは、日向ユキと内藤兼備の結婚が最初だとされている。

■日向ユキと新島八重(山本八重)の再会
日向ユキ(内藤ユキ)の幼なじみの山本八重は、会津藩の敗戦後、兄の山本覚馬を頼って京都に移り住み、準宣教師の新島襄と結婚して「新島八重」となっていた。

新島八重は会津戦争のとき、若松城に入城していたため、日向ユキとは生き別れになっていたが、2人は偶然にも北海道で再会することになる。

1897年(明治20年)6月17日、新島八重と新島襄は仙台東華学校の開校式に出席。その後、避暑のために北海道へ向かい、1897年(明治20年)7月3日に函館へ到着する。

山本八重と新島襄の2人は函館に4日間滞在した後、新島襄の密出国を手伝ってくれた恩人・福士卯之吉に会うため、函館から札幌へ向かった。

函館で住んでいた雑賀夫婦も札幌へ移住しており、新島八重は札幌で雑賀浅と再会を果たす。

このとき、新島八重は、雑賀浅から、日向ユキも札幌で住んでいることを聞き、1887年(明治20年)7月14日に日向ユキと再会を果たしている。

■日向ユキの晩年のネタバレ
会津出身の日向ユキは、元薩摩藩士の内藤兼備と結婚したことを気にしていたのか、生涯、故郷の会津を訪れることは無く、北海道でその後を過ごした。

日向ユキは老齢になっても幼少期のことを鮮明に記憶しており、晩年、息子に口述筆記させて、自身の体験を「萬年青(おもと)」として書き残し、1944年(昭和19年)に死去した。享年94歳であった。

実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレについては『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

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