松平容保が京都守護職に就任した理由のネタバレ

山本八重の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ「松平容保が京都守護職に就任した理由のネタバレ」編です。

このページは「樋口うらと川崎正之助のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「山本八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■会津藩主の松平容保が京都守護職に就任
1853年に黒船が来航して以降、開国か鎖国かの論議がわき起る。「尊皇攘夷」の名の下に改革の嵐が吹き荒れ、京都では尊皇攘夷派による暗殺などが相次ぎ、治安が乱れていた。

そこで江戸幕府は京都に京都守護職を置くことに決め、会津藩主の松平容保(まつだいら・かたもり)に京都守護職を要請した。

本来、有事の際には彦根藩(滋賀県)の藩主・伊井家が京都守護職に就く事になっていた。

しかし、彦根藩主の井伊直弼は2年前(1860年)に起きた「桜田門外の変」で暗殺されたため、13歳の井伊直憲が家督を継いでおり、井伊直憲に京都守護職を任せるには荷が重かった。

このため、東日本一の軍事力を誇る会津藩主・松平容保に話が回ってきたのだ。

しかし、会津藩主・松平容保は体調を崩しており、京都守護職への就任を固辞した。

京都守護職への就任は藩への負担が重いため、藩の財政を圧迫することは目に見えていた。

既に会津藩は江戸湾岸警備に伴う財政負担で、財政は逼迫しており、会津藩の家老・横山主税(よこやま・つねのり)を筆頭に家臣は誰一人として、京都守護職への就任に賛成する者は居なかった。

しかし、江戸幕府・政事総裁職の松平春嶽が、会津藩は代々「将軍家の守護」を家訓していることを指摘すると、会津藩主・松平容保は家訓を守り、京都守護職を引き受けたのであった。

■松平容保が京都守護職を引き受けた理由のネタバレ
初代・会津藩主の保科正之は、江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠の実子(4男)だが、側室ではない女中の「静」が生んだ子だっため、武田信玄の次女・見性院に預けられて育った。

その後、3代将軍に就いた徳川家光が、保科正之という異母兄弟の存在を知り、保科正之を会津藩23万石の大名に引き上げた。

このため、初代・会津藩主の保科正之は、将軍家(徳川家)に恩義を感じていた。

さらに、3代将軍・徳川家光は死に際に保科正之を呼び、徳川家のことを頼んだため、初代・会津藩主の保科正之は徳川家に永遠の忠義を誓い、「会津家訓十五箇条」を制定した。

その「会津家訓十五箇条」の第1条に、「会津藩は将軍家を守護する存在である」と定められているのである。

そして、3代会津藩主・保科正容の代になり、保科家は松平の姓を名乗ることを許された。

こうして、保科家は名実ともに徳川家の一門と認められるようになり、会津藩の徳川家に対する忠義は絶対的なものとなった。

会津藩では毎年、会津家訓十五箇条を読み上げる行事があり、その時は会津藩主も下座で会津家訓十五箇条を拝聴する習わしとなっている。

会津藩にとって会津家訓十五箇条は絶対であり、いかなる事情があれど、破ることは出来ない家訓であった。

このことを知っていた江戸幕府・政事総裁職の松平春嶽は、会津藩の「会津家訓十五箇条」の第1条を利用して、京都守護職への就任を固辞する松平容保に京都守護職を引き受けさせたのである。

会津藩主・松平容保が家訓を守るために京都守護職を引き受けてもなお、会津藩・家老の西郷頼母(さいごう・たのも)は京都守護職への就任に反対したため、松平容保の怒りを買い、免職となってしまった。

会津藩は、松平容保が京都守護職に就いたことにより、重い財政負担を強いられ、その負担は会津藩の農民へ押しつけられた。このため、会津藩は農民から強く恨まれることになる。

■山本覚馬が京都へ行く
1862年9月24日、会津藩主の松平容保が京都守護職に就任する。1863年1月に上洛した松平容保は、浪士組の近藤勇ら(後の新撰組)を会津藩預かりとして京都の治安に勤め、尊皇攘夷派を排除していく。

山本覚馬が上洛したのは、会津藩主・松平容保の上洛に遅れること1年、1864年2月のことであった。

桜田門外の起きた1860年に、山本覚馬と妻・樋口うらの間に第1子となる女児が誕生するが、生まれてまもなく死亡していた。そして、1862年夏に第2子となる女児「みね」が誕生していた。

山本覚馬は妻「樋口うら」と乳飲み子の「山本みね」を残し、軍事奉行・林権助の補佐として会津を出て京都を目指していた。

■京都でも学問
会津藩は教育に力を入れているため、出先でも学校を開設していた。このため、会津藩は京都でも学校を開いた。

京都に着いた山本覚馬は、大砲隊の調練や蘭学所での指導にあたる。蘭学所は藩籍に関係なく門戸を開いたため、志ある者が多く集まってきた。

■8月18日の政変
会津藩は、会津藩士・秋月悌次郎の活躍により、薩摩藩と手を結ぶ事となり、薩摩藩と共に尊皇攘夷派の追放を画策した。

1863年9月30日(文久3年8月18日)、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を中心とする尊皇攘夷派を京都から追放する。これにより、公武合体派が勢力を強める(8月18日の政変)。

■池田屋事件
1864年7月8日、新撰組が、京都の池田屋で会合していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派を襲撃し、尊王攘夷派を排除した(池田屋事件)。

尊王攘夷派は京都守護職を勤める会津藩主・松平容保の暗殺などを計画していたとされおり、尊王攘夷派の計画を未然に防いだ新撰組の名声が高まる。

■新島襄(新島七五三太)の密出国
京都で不穏な空気が流れるなか、北海道では1人の男が密航しようとしていた。男の名は新島七五三太(にいじましめた)、後の新島襄である。

参勤交代の労役に嫌気をさした安中藩士・新島七五三太は、脱獄を計画。函館遊学を口実に北海道・函館へ渡って協力者を見つけ、脱獄を実行へと移していた。

1864年7月17日(元治元年6月15日)の深夜、新島七五三太(新島襄)は、アレクサンダー・ポーター商館で番頭をしていた福士卯之吉の協力を得て、アメリカ船「ベルリン号」に乗り込み、函館から密出国した。

■佐久間象山の暗殺
1864年、佐久間象山は京都で、公武合体や開国論を主張していた。山本覚馬は頻繁に恩師・佐久間象山の元を訪れて、様々なことを話し合った。

佐久間象山は、彦根へ遷都する計画を密かに進めていたが、彦根遷都の計画が漏れてしまい、1864年8月12日に京都・三条木屋町で「人切りの彦斎」と呼ばれる刺客・河上彦斎に襲われて死亡した(佐久間象山の暗殺事件)。

山本覚馬は佐久間象山の死を知り、泣き崩れた。その後、勝海舟の依頼で、山本覚馬は佐久間象山の息子・佐久間恪二郎を預かった。佐久間恪二郎が新撰組へ入隊したのは、山本覚馬の勧めだったとされている。

実話「山本八重の桜」の会津編「禁門の変-山本覚馬が失明した理由のネタバレ」へ続く。

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