山本覚馬が失明した理由のネタバレ

山本八重の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ「山本覚馬が失明した理由のネタバレ」編です。

このページは「松平容保が京都守護職に就任した理由のネタバレ」からの続きです。

実話「山本八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■禁門の変(蛤御門の変)のあらすじ
1864年8月19日、長州藩が、朝廷への「冤罪の主張・嘆願」を口実に、会津藩を排除するために京都へ攻め入る(禁門の変=蛤御門の変)。

長州藩は1863年9月30日に起きた「8月18日の政変」で会津藩や薩摩藩によって京都から追放されて以降、表だった動きは無かったが、長州藩などの強行派が密かに京都でテロを画策していた。

しかし、会津藩指揮下の新撰組の活躍により、池田屋で会議で強行派は斬り殺され、長州藩のテロは阻止された。いわゆる「池田屋事件」である。

この池田屋事件により、長州藩の強行派が激怒。長州藩は朝廷への「冤罪の主張・嘆願」を口実に、会津藩を排除するために京都を攻めたのである。

これに対して、会津藩が中心となり、京都御所を守る。会津藩士の山本覚馬は大砲隊と足軽隊を率いて、京都御苑の西門にあたる御所蛤門(はまぐりごもん)に布陣し、長州軍に応戦した。

一方、長州軍の国司信濃が、京都御苑の中立売門を守っていた筑前藩を撃破して、京都御苑内に進入。援軍に駆け付けた薩摩軍に敗走した国司信濃の兵士は、京都御苑内にある鷹司邸に立て籠もった。

やがて、御所蛤門を守っていた山本覚馬の元にも、京都御所の鷹司邸に長州軍が立てこもっているとの知らせが入る。

山本覚馬や中沢帯刀は、大砲隊を率いて鷹司邸に駆けつけると、鷹司邸に砲撃して壁を打ち崩す。さらに、西洋式銃で射撃を加えて立て籠もっていた長州軍・国司信濃の兵士を全滅させた。

ようやく京都から長州軍を排除出来たものの、この時の砲撃で家屋が炎上。火は風にあおられて瞬く間に燃え広がり、京都を火の海とした(どんどん焼け事件)。

火事は2日後の8月21日朝まで続き、2万7000世帯を焼失する。長州藩が仕掛けた戦争であったが、京都の民は京都を火の海にした会津藩を恨んだ。

この火事により、焼け野原となった京都は衰退。後に山本覚馬が京都府顧問となり、京都の復興に力を入れたのは、この時の火事(どんどん焼け事件)に責任を感じていたからだったとされている。

なお、山本覚馬は蛤御門の変での活躍が認められ、3人扶持が増加し、13人扶持になっている。

一方、会津藩の排除に失敗した長州藩は、御所に刃を向けたことにより、朝敵となってしまうのであった。

■山本覚馬が失明する原因のネタバレ
山本覚馬はこの「禁門の変(蛤御門の変)」で長州藩の襲撃を受けたさい、両目を負傷している。後に山本覚馬は失明するのは、このときの傷が原因だとされている。

ただ、大砲師範の山本覚馬は、多くの鉄砲や大砲を撃ったため、鉄砲や大砲の煙硝が原因で失明したという説もある。

■川崎尚之助-会津藩士への道
西洋銃と大砲に精通した会津藩士は、山本覚馬と川崎尚之助の2人だけだったが、川崎尚之助は正式な会津藩士ではなかったため、会津に残っていた。

山本覚馬は川崎尚之助を京都へ送るよう、会津藩に要請していたが、川崎尚之助が会津藩士ではなかったため、要請は認められなかった。

会津藩では「火縄銃は下級武士の道具」として洋式銃の地位は低かったが、「蛤御門の変」での山本覚馬の活躍により、重要性が少しは認められるようになった。

そこで、山本覚馬は洋式銃の導入を主張すると共に、川崎尚之助を正式な会津藩士に取り立てるよう強く推挙したのであった。

実話「新島八重の桜」の会津編「山本八重が川崎尚之助と結婚して川崎八重が誕生」へ続く。

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