秋月悌次郎の左遷と薩長同盟-長州討伐と四境戦争

山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ「秋月悌次郎と薩長同盟-長州討伐と四境戦争」編です。

このページは「山本八重が川崎尚之助と結婚して川崎八重が誕生」からの続きです。

実話「山本八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■長州討伐-薩長同盟と四境戦争
1864年、「禁門の変(蛤御門の変)」で京都に刃を向けた長州藩は朝敵となる。朝廷から討伐命令を受けた江戸幕府側連合軍は、長州藩を討伐するため、九州へ兵を進めた(第1次長州討伐)。

長州藩は、1863年に関門海峡を通るアメリカ船などを砲撃し、アメリカ・フランス連合軍と戦争し、国力を消耗していた(下関戦争)。

さらに、1684年に「禁門の変」を起こして兵力を消費していたため、長州藩では保守派が台頭していた。

このため、江戸幕府軍・薩摩藩の西郷隆盛が長州藩に対して「禁門の変」の責任者の切腹などを命じると、保守派が主導する長州藩は、西郷隆盛の勧告を受け入れて恭順を示した。こうして、第1次長州討伐は終結した。

その後、アメリカ・フランス・イギリス・オランダの四国連合が、1863年の砲撃の報復として長州藩を攻撃する(下関戦争)。

長州藩は四国連合に惨敗したが、この戦いが切っ掛けで長州藩は軍制の近代化が進み、近代兵器を導入するようになった。

■第2次長州討伐
1865年1月12日、長州藩の高杉晋作が挙兵する。高杉晋作がクーデターを起こして長州藩の保守派を倒して長州藩の実権を握ると、長州藩は再び倒幕に動いた。

江戸幕府はこれを見過ごすことが出来ないが、14代将軍・徳川家茂が動かない。1666年になり、14代将軍・徳川家茂がようやく、長州藩の討伐を決定する(第2次長州討伐=四境戦争)。

江戸幕府軍は5方向から長州藩を攻める予定だったが、土佐藩の仲介で長州藩と「薩長同盟」を結んだ薩摩藩は、出兵を拒否。幕府側は4方向から長州藩を攻めることになる。

■左遷された秋月悌次郎と薩長同盟
会津藩士・秋月悌次郎(あきづき・ていじろう)は聡明で、若くして江戸に遊学した後、西日本を巡っており、西日本諸藩の事情に通じていた人物だった。

秋月悌次郎は会津藩の家老・横山主税(よこやま・ちから=横山常守)に認められ、会津藩主・松平容保の京都守護職の就任にともない、公用(外交官)として京都へ随伴していた。

会津藩は東日本一の軍事力を誇り、教育にも力を入れていたが、京都から遠く離れた会津で、時勢を知るものは、秋月悌次郎や山本覚馬など優秀な若手の数人だけだった。

「八月八日の政変」で京都から長州藩を排除したさい、会津藩が薩摩藩と手を組めたのは、西日本諸藩の事情に通じた秋月悌次郎の活躍があったからだった。

しかし、会津藩は身分意識が非常に強く、優秀であっても身分が低ければ浪人として扱われ、重用されることはなかった。

秋月悌次郎は家老・横山主税(横山常守)に認められ、京都で公用(外交交渉)に抜擢されていたが、秋月悌次郎は身分が低かった。

このため、秋月悌次郎を重用した家老・横山主税が「禁門の変(蛤御門の変)」で死ぬと、身分の低い秋月悌次郎は蝦夷地代官へと左遷されてしまったのである。

その後、薩摩藩では大久保利通や西郷隆盛が台頭し、薩摩藩は倒幕派に転身。土佐藩出身の坂本龍馬の斡旋もあり、敵対していた薩摩藩と長州藩が和解し、薩長同盟を結んだ(薩長同盟)。

会津藩は、西日本諸藩の事情に明るい秋月悌次郎を左遷したことにより、自ら薩摩藩や長州藩との交渉のルートを絶ち、薩長同盟を結ばせてしまったのである。

実話「山本八重の桜」の会津編「山本八重の7連発スペンサー銃の秘密のネタバレ」へ続く。