実話「山本三郎の生涯」

山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ「会津藩士の山本三郎」編です。

このページは「山本八重の7連発スペンサー銃の秘密のネタバレ」からの続きです。

実話「山本八重の桜」の目次は「実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ」です。

■会津藩に陰り
男勝りに育った山本八重も川崎尚之助と結婚し、女性としての幸せが訪れたかのように思われたが、山本八重の平穏な生活は永くは続かなかった。やがて、会津藩の運命は戦争へと引きずり込まれていく。

江戸幕府軍は第2次長州討伐で、4方向から長州藩を攻めていたが、西洋式の軍制改革を行っていた長州藩は強かった(四境戦争)。

第2次長州征伐中の1866年8月29日、14代将軍・徳川家茂が急死。徳川慶喜は徳川家茂の死亡を理由に朝廷に停戦の勅命を働きかけ、停戦へ持ち込んだ。これは実質的な江戸幕府軍の敗北を意味している。

1867年1月10日、徳川慶喜が江戸幕府の15代将軍に就任する。江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の誕生である。

1867年1月30日、孝明天皇が崩御(死去)する。孝明天皇は急死したため、倒幕派による毒殺説もささやかれているが、死の真相は不明である。

京都守護職を勤める会津藩主・松平容保に全幅の信頼を置いていた孝明天皇が崩御したことにより、歴史は動き出す。

■一派むなしく大政奉還
1867年11月9日、会津藩などと共に公武合体を進めていた江戸幕府の15代将軍・徳川慶喜が天皇に政権を返上する(大政奉還)。大政奉還は山本三郎が京都について間もなくの出来事だった。

大政奉還は、討幕派の大義名分を奪うための形式上のものだった。徳川慶喜は暫定政権としてその後も政権を担い、徳川家を中心とした新政府を作ろうとしていた。

■山本三郎が京都へ向かう
1867年、山本八重の弟・山本三郎(やまもと・さぶろう)は藩校「日新館」で優秀な成績を収め、江戸遊学に出ていた。

京都の情勢は次々と江戸にも届けられており、京都での不穏な動きを懸念した山本三郎ら遊学生は、京都行きを直訴して、1867年12月に江戸へと旅だった。

このころ、中部地方から四国にかけて、民衆が「えーじゃないか、えーなじゃないか」と歌いながら踊って町を巡る「ええじゃないか」現象が起きており、京都へ向かう山本三郎は道中で「ええじゃないか」という奇妙な騒ぎに遭遇した。

■坂本龍馬の暗殺
1867年12月10日、京都の近江屋に宿泊していた坂本龍馬と中岡慎太郎の2人が何者かに襲撃され、死亡する(近江屋事件)。

坂本龍馬を暗殺した犯人については諸説があるが、京都見廻組・佐々木只三郎らによる犯行が有力とされている。

京都見廻組・佐々木只三郎の兄は会津藩士の手代木勝任で、会津藩士・手代木勝任が坂本龍馬の暗殺を命じたという説もある。

なお、山本八重は2番目の夫・新島襄の死後、会津藩士・手代直右衛門の孫・甘粕初子を養女に迎えている。

■王政復古の大号令
1868年1月3日、徳川慶喜の大政奉還に対抗するため、倒幕派の薩摩藩が動いた。

公武合体派の薩摩藩は会津藩とも共に戦い、京都から長州藩を追放した仲であったが、西郷隆盛らの台頭により倒幕派に転身し、1866年には坂本龍馬の仲介で長州藩と同盟を結んでいた(薩長同盟)。

明治天皇を擁する薩摩藩らは、京都を封鎖し、1868年1月8日に「王政復古の大号令」を布告する。これにより、江戸幕府は廃止され、新政府(明治政府)が成立する。

1868年1月11日、二条城(京都)に居た徳川慶喜は、新政府軍に恭順を示すため、大阪城へと移る。

■薩摩藩邸の焼討事件
一方、江戸では、以前から薩摩藩を中心とする倒幕派が度重なる挑発行為を繰り返しており、薩摩藩(佐土原藩)の藩士が、江戸市中を取り締まる庄内藩の駐屯地に発砲していた。

1868年1月19日、度重なる挑発に耐えかねた庄内藩士は、江戸の薩摩藩邸を襲撃し、薩摩藩邸を焼き払った(薩摩藩邸の焼討事件)。

薩摩藩邸の焼討事件を切っ掛けに、江戸では倒幕派と佐幕派とが交戦状態に入る。報告を聞いた薩摩藩の西郷隆盛はほくそ笑んだという。

実話「新島八重の桜」の会津編「山本三郎と林権助が死亡、神保修理の切腹」へ続く。

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