朝敵(逆賊)の会津藩を討伐せよ

山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ「朝敵(逆賊)の会津藩を討伐せよ」編です。

このページは「山本覚馬建白(管見)」からの続きです。

実話「山本八重の桜」の目次は『実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■逆賊となった会津藩
会津藩は京都守護職について京都から討幕派を排除し、庄内藩は江戸市中取締役に就いて江戸から討幕派を排除していた。

このため、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍(明治政府)は会津藩・庄内藩を「朝敵」として討伐に乗り出した。

会津藩主の松平容保は、新撰組などを使って京都から尊王攘夷派(長州藩士)を排除したうえ、第1次長州討伐で陸軍総裁を勤めたことから、新政府側の長州藩から強く恨まれていたのである。

一方、江戸市中取締役についていた庄内藩は、江戸の薩摩藩邸を襲撃しており、新政府側の薩摩藩と強い遺恨があった。

このようななか、江戸から会津藩に戻った藩主・松平容保は、養子の松平喜徳(まつだいら・のぶのり)へ家督を譲って謹慎して、恭順を示した。ただ、会津藩の姿勢は「武装恭順」であった。

長州藩は第1次長州討伐の結果、主戦派が粛正され、非戦派となったが、その後、高杉晋作らのクーデターにより、主戦派が台頭し、長州藩は武装恭順へと転身した。

しかし、江戸幕府は長州藩の武装恭順を認めず、再び長州藩を討伐するため、兵を挙げた(第2次長州討伐)。

そもそも江戸幕府側が長州藩の武装恭順を認めなかったのだから、会津藩の武装恭順など認められはずがないことは明だった。

■朝敵(逆賊)の会津藩を討伐せよ
1868年2月10日(慶応4年1月17日)、新政府軍は「会津攻めの希望を聞き入れる」として、仙台藩に会津藩の討伐を命じる。しかし、仙台藩は会津攻めなど主張しておらず、抗議する。

1868年2月10日(明治4年1月17)、新政府は米沢藩に仙台藩の補佐を命じる。米沢藩は会津藩に恩義があるため、勅命といえど簡単に従うことは出来ない。

初代会津藩主・保科正之のとき、米沢藩の第3代藩主・上杉綱勝は実子も養子も無いまま急死した。

跡取りを決めずに米沢藩主・上杉綱勝が死んだため、米沢藩・上杉家は御家断絶になるはずであったが、初代会津藩主・保科正之の取り計らいにより、家名存続が許されていた。

このため、米沢藩は会津藩に強い恩義があり、会津藩を裏切って会津を攻めることは出来ない。

なお、米沢藩・上杉家は御家断絶を免れ、上杉綱憲が家督を継いだが、米沢藩は30万石から15万石へと減封となり、財政難に陥っている。減封された15万石の領地は幕府直轄となり、その後、福島藩なっている。

一方、新政府は東北諸藩に檄を飛ばして、会津藩・庄内藩への討伐を命じるが、東北諸藩は東北同士で無駄な戦争をしたくないという思惑があり、態度を決めかねていた。

実話「山本八重の桜」の会津編「奥羽鎮撫総督府と世良修蔵のあらすじとネタバレ」へ続く。