奥羽鎮撫総督府と世良修蔵のあらすじとネタバレ

山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ「奥羽鎮撫総督府の世良修蔵のあらすじとネタバレ」編です。

このページは「朝敵(逆賊)の会津藩を討伐せよ」からの続きです。

実話「山本八重の桜」の目次は『実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■奥羽鎮撫総督府の発足
1868年3月(慶応4年2月)、新政府は東北を平定するため、奥羽鎮撫総督府(おううちんぶそうとくふ)を組織した。奥羽鎮撫総督府は討伐軍ではなく、東北を鎮撫(ちんぶ)する組織だった。

奥羽(おうう)とは、東北地方の古い呼び方で、鎮撫(ちんぶ)とは、暴動を鎮めて民を安心させることである。

新政府は「東北の平定は東北の兵を持って行う」との方針を取っており、奥羽鎮撫総督府に与えられた兵はわずかであった。

これは、東征大総督(征討大将軍)の有栖川宮熾仁親王が率いる新政府軍が江戸城攻略にあたるため、奥羽鎮撫総督府に兵力を割けなかったため、とされている。

■世良修蔵(せら・しゅうぞう)
奥羽鎮撫総督府の発足早々、参謀に就任していた薩摩藩の黒田清隆や長州藩の品川弥二郎ら首脳陣数名が辞任していまう。このため、公卿の九条道孝を総督とした首脳陣に一新する。

こうして、黒田清隆らの後任として、長州藩の世良修蔵(せら・しゅうぞう)と薩摩藩の大山格之助の2人が、下参謀に就任することなったのである。

首脳を一新した奥羽鎮撫総督府は、公卿の九条道孝(くじょう・みちたか)が総督を務めた。副総督は公卿の沢為量(さわ・ためかず)で、参謀は公卿の醍醐忠敬である。

世良修蔵と大山格之助の2人は下参謀であったが、これは公卿と位を同列にしないための配慮であり、形式上の物だった。

要職についた公卿3人は戦いの経験なども無く、半分は飾り物であり、実質的には下参謀の世良修蔵と大山格之助の2人が奥羽鎮撫総督府の主導権を握っていた。

この結果、奥羽鎮撫総督府は討伐派が体勢を占めることとなり、鎮撫とは名ばかりで、実質的な討伐軍になるのであった。

しかし、奥羽鎮撫総督府の兵力はわずか570人で、奥羽鎮撫総督府が単独で会津藩・庄内藩を攻略することは不可能だった。そこで、奥羽鎮撫総督府は東北の雄藩・仙台藩に強く出兵を迫ったのである。

会津藩に同情的な仙台藩は、奥羽鎮撫総督府に、会津藩の降伏を受け入れる条件を尋ねた。

これに対して世良修蔵が突き付けた条件は、松平容保の斬首に加え、松平喜徳の監禁と若松城の開城という厳しい内容だった。会津藩がこのような条件を飲むはずがなかった。

1868年4月19日、会津藩に同情的な仙台藩であったが、仙台藩内にも「新政府軍の命令に従うべき」との意見もあり、会津藩へ進軍することとなった。

仙台藩の進軍を知った会津藩は、仙台藩に降伏の使者を送る。会津藩に同情する仙台藩は、表向きは藩境で戦争をするふりをして、裏で署名嘆願について協議することにした(会津救済運動)。

1861年5月(慶応4年4月29)、会津藩・仙台藩・米沢藩の家老が、宮城県の関宿に集まり、署名嘆願について協議する(関宿会議)。

会津藩・松平容保は第1次長州討伐で陸軍総裁を務めたとき、長州藩の家老3人を切腹させ、参謀4人を斬首している。

このため、仙台藩は奥羽鎮撫総督府に謝罪嘆願を取り次ぐ条件として、会津藩に「鳥羽・伏見の戦い」の首謀者の首を差し出すことを求めた。

会津藩の家老・梶原平馬は「帰って戦の準備をする」と激怒するが、戦を避けたい仙台藩・米沢藩は「会津一国の命と、1人の命とどちらが大事か考えろ。首を差し出せば、後のことは責任を持つ」と言って家老・梶原平馬を説得し、関宿会議は終了した。

一方、奥羽鎮撫総督府の総督・九条道孝は、会津藩に「謝罪嘆願すれば、寛大な処分を下す」と謝罪を勧告する。

仙台藩・米沢藩による会津嘆願運動に加え、奥羽鎮撫総督府の総督・九条道孝からの謝罪勧告があったため、「鳥羽伏見の戦い」での首謀者の首を差し出せば、会津藩の謝罪は認められる公算が大きかった。

そのころ、江戸では江戸城の無血開城が行われ、徳川慶喜に寛大な処分が下されており、会津藩も謝罪嘆願すれば、九条道孝の勧告通りに寛大な処分が下る見込みだった。

しかし、会津藩では「『鳥羽・伏見の戦い』の責任は徳川慶喜の処分で決着している」という意見も強く、意見が分かれていた。

その結果、会津藩主の松平容保は関宿会議の結果を無視して、奥羽鎮撫総督府に「会津藩は徳川家の処分を見届けるまでは、謝罪はできない」という宣戦布告を叩き付けたのである。

世良修蔵の暗殺のあらすじ」へ続く。