三春藩の裏切り・二本松少年隊の悲劇

山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ「三春藩の裏切り・二本松少年隊の悲劇のあらすじ」編です。

このページは「白河口の戦い-白河城の奪還作戦のあらすじ」からの続きです。

実話「山本八重の桜」の目次は『実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■三春藩の裏切り-三春狐
手薄となった棚倉藩(福島県棚倉町)へ進軍した新政府軍の板垣退助が棚倉藩を落とすと、三春藩(福島県三春町)は奥羽越列藩同盟を裏切って新政府軍に降伏する。

仙台藩は三春藩に監視の兵を配置していたのだが、白河城を新政府軍に奪われたため、監視の兵に三春藩を拘束するほどの力は無くなっており、新政府軍が棚倉藩を落とすと、三春藩は新政府軍に使者を送って恭順を示したのだ。

奥羽諸藩からみれば三春藩が新政府軍に寝返ったようにみえるが、元々、三春藩は勤王派(新政府側)で、仙台藩の圧力を受けて奥羽列藩同盟に参加した経緯がある。

三春藩は奥羽列藩同盟に参加する際も、新政府に「同盟に参加しなければ、滅ぼされるため、仕方なく同盟に参加する」と事情を説明しており、本来は新政府側の立場にあった。

しかし、三春藩は東北の裏切り者とされ、「三春狐」と呼ばれて東北諸藩から批判されて遺恨を残した。特に仙台藩からは強く恨まれていたという。

一説によると、「淺川の戦い」でも三春藩の裏切り行為があったとされているが、真相は分からない。

ちなみに、奥羽越列藩同盟を裏切ったのは三春藩だけでなく、本荘藩や秋田藩や弘前藩も新政府に寝返った。

本荘藩や秋田藩などのように新政府側に寝返り、東北戦争後の処分で知行が増えている藩もある。また、積極的に動かず、処分を受けなかった藩も多い。

■守山藩の降伏
三春藩(福島県)が奥羽越列藩同盟を裏切って新政府軍に寝返ると、三春藩の後を追うように守山藩(福島県)も新政府軍に恭順を示して降伏する。

守山藩の藩主・松平家は水戸藩・徳川家の流れをくむが、守山藩は特に行動を起こすこと無く、新政府軍に降伏している。

こうして三春藩・守山藩が降伏したため、新政府軍の板垣退助は無傷で三春藩を通過。地の利を知る三春藩の道案内で、新政府軍の板垣退助は、二本松藩(福島県)へと兵を進めたのである。

■二本松少年隊の悲劇
1868年9月15日、新政府軍の参謀・板垣退助に攻められた二本松城が落城し、二本松藩が降伏する。

二本松藩は白河城(白河口の戦い)などに主力部隊を派遣しており、新政府軍の板垣退助に留守を突かれる形となっていた。

三春藩・守山藩が抵抗せずに降伏したため、新政府軍の板垣退助は一気に兵を北へと進めて二本松藩へ迫っており、二本松藩には主力部隊を呼び戻す程の時間は無かった。

さらに、新政府軍の別部隊が側面から二本松藩へ迫っており、二本松藩は絶体絶命の危機に瀕していた。

老兵しか居ない二本松藩は降伏しても仕方の無い状況だったが、家老の丹羽富穀(にわ・とみたけ)が「死を賭して信義を守るは、二本松武士の本懐である」と徹底抗戦を主張したため、二本松藩は新政府軍に交戦することになった。

このため、二本松藩は少年兵までも戦場へ投入することになる。少年兵は最新式の洋式銃(元込式のスナイドル銃とされている)を装備しており、新政府軍を困らせたが、多勢に無勢で新政府軍の勢いを止めることが出来ず、二本松城は陥落してしまう。

二本松藩の少年兵は15歳と16歳で構成されていたが、藩存亡の危機に直面しているため、特例により年齢を引き下げられ、12歳から17歳の少年で構成されていた(指揮官は除く)。

二本松城の戦いで散った二本松藩の少年兵は正規軍ではなく、隊に名前は無かったが、後に「二本松少年隊」と呼ばれるようになり、会津藩の白虎隊と並ぶ戊辰戦争の悲劇として知られることになる。

一般的に「二本松少年隊の悲劇」として知られるのは、二本松少年隊62名のうち、木村銃太郎が率いて大壇口で戦った二本松少年隊25名である。

二本松藩士の家庭では食事の度、母親が子供に切腹の作法を教え、武士の心得を教えており、少年兵といえども、地元の農民が「武士の子とマムシには手を出すな」として恐れるほどであった。

「二本松少年隊の悲劇」となる大壇口の戦いは、戊辰戦争で最も激しい戦いだったとされるが、会津藩の白虎隊や若松城籠城戦が有名になったため、二本松少年隊の悲劇はあまり知られていない。

■会津攻めよか、仙台とろか、ここが思案の二本松
白河城と二本松城を落とした新政府軍は、攻略方針で意見が分かれた。速やかに東北を平定するためには、根っ子となる会津藩を枯らすべきか、枝葉となる奥州列藩同盟の東北諸藩を刈るべきか。

江戸に居る参謀・大村益次郎は「枝葉を刈れば、根っ子は枯れる」と主張した。一方、二本松城に居る参謀・伊地知正治と板垣退助の2人は、「根っ子を刈れば、枝葉は枯れる」と主張した。

軍議の結果、現地に居る伊地知正治らの意見が採用され、新政府軍は根っ子(会津藩)を刈って枝葉(奥州列藩同盟)を枯らす作戦に出た。

既に秋が訪れており、冬になって東北地方が雪で覆われれば、薩摩や長州が中心となっている新政府軍は不利になる。冬が来る前に逆賊の会津藩を討つ必要があった。

実話「新島八重の桜」の会津編「山本八重と白虎隊の伊東悌次郎のあらすじとネタバレ」へ続く。

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コメント欄

南相馬出身で三春藩のことは何も言えません相馬藩も新政府軍に降伏の憂き目になったのです。石高六万石鉄砲は火縄銃にちかく藩兵も少なく藩主もどちつかずで藩士たちも列藩同盟に参加し敗北相馬藩も裏切ることになるニ本松藩主が藩士たちを置き去りにして逃げるとゆう始末なさけない

  • 投稿者-
  • 匿名

二本松藩は官軍から領民を護るとの名目で藩内から軍資金2万両を集めた。そのうち9千両は郡山から。しかしいざとなると老人子供を残し米沢に逃げた。霞城址には戒石銘なる領民あっての武士の意の記念碑があるが行動が伴っていない。会津藩は郡山に出張って官軍と対峙に備えたが、守山藩が官軍に付くと郡山に火を放って退却した。ならぬものはならぬものは単なるお題目だった。藩が優先で庶民など眼中にほとんどなかったのだろう。板垣退助は会津領民の藩士に対する態度を見て会津藩が領民に慕われていたとは思えないと言っている。

  • 投稿者-
  • 名無し2