実話-娘子隊(婦女隊)の中野竹子と山本八重

山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜-会津編」のあらすじとネタバレシリーズ「実話-娘子隊(婦女隊)と山本八重」編です。

このページは「実話-佐川官兵衛の奇襲攻撃のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「山本八重の桜」の目次は『実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■実話-娘子隊の中野こう子が山本八重に激怒
1868年10月13日(慶応4年8月28日)、籠城6日目にして若松城に入城した娘子隊(別名「婦女隊」)の中野こう子が、卑怯者の山本八重に「なぜ娘子隊に加わらなかったのですか」と問うた。

1868年10月8日(籠城1日目)早朝、若松城の城下町に早鐘が鳴り響いたとき、山本八重は若松城に入城することができたが、敵の侵入は早く、早々に城門は閉ざされ、城内に入れなかった者も多かった。

中野竹子は会津藩主・松平容保の義姉・照姫を警護するため、母・中野こう子と妹・中野優子を連れて、若松城へ向かったが、時は既に遅く、若松城の城門は閉ざされていた。

■中野竹子の略歴
中野竹子は、会津藩士・中野平内の長女で、江戸の会津藩上屋敷で生れ、江戸で育った。中野竹子は幼い頃から聡明で、文武に優れ、かなりの美人だったという。

また、中野竹子は幼少期から赤岡大助に師事して薙刀(なぎなた)を学び、道場では師範代を務めるほどの腕前であった。

中野竹子は江戸で生活していたが、「鳥羽・伏見の戦い」の後、藩主・松平容保が徳川慶喜から登城禁止を言い渡されて会津へ戻ったことに伴い、中野竹子一家も会津に引き上げていた。

■中野竹子のお風呂
会津の風呂屋は混浴だったため、江戸で生まれ育った中野竹子は風呂屋へは行かず、自宅のタライで入浴していた。中野竹子は絶世の美女だったため、会津の男はこぞって風呂場を覗きに行ったという。

覗かれたことに激怒した中野竹子は薙刀を振り回し、覗きに来た男を追い払ったという逸話が残っている。

■中野竹子が娘子隊(婦女隊)を結成
1868年10月8日(籠城1日目)、若松城へ入城できなかった中野竹子は、同じように逃げ遅れた依田まき子・依田菊子(後の水島菊子)・岡村ます子の3人と出会い、娘子隊(婦女隊)を結成した。

(この時、依田菊子は既に髪を切り落としていた。山本八重が髪を切るのは、籠城1日目の夕方あなので、依田菊子が髪を切るのは早かった。)

さらに、入城できなかった神保雪子(切腹させられた神保修理の妻)などが続々と薙刀を持って集まり、娘子隊(婦女隊)は20数名に発展した。

娘子隊(婦女隊)は、会津藩が設置した正規軍ではなく、逃げ遅れた女性らが中野竹子らに合流して自然発生した義勇軍的なものである。この点は、正規軍の白虎隊とは大きく異なる。

娘子隊(婦女隊)は義勇軍なので部隊に名前は無く、後に「娘子隊」または「婦女隊」と呼ばれるようになった。後に名称が付いた点は、二本松藩の悲劇として知られる「二本松少年兵」と同じである。

■実話-娘子隊(婦女隊)の出陣
1868年10月8日(籠城1日目)、娘子隊(婦女隊)を結成した中野竹子らは、会津兵から会津藩主・松平容保の義姉・照姫が坂下へ避難したという情報を聞き、照姫を警護するため、坂下へと向かった。

しかし、情報は間違っており、坂下に照姫は居なかった。中野竹子らはこの日、坂下の法界寺で宿泊し、翌日、照姫を警護するため、若松城へ向かうことにした。

1868年10月9日(籠城2日目)、中野竹子ら娘子隊(婦女隊)は高瀬村に会津軍が駐留している事を知り、高瀬村に駐留している会津藩の家老・萱野権兵衛に従軍を願い出た。

しかし、娘子隊は女ばかりだったため、家老・萱野権兵衛は「城に帰って女中の仕事をして欲しい」と言い、従軍を拒否する。会津藩士にとって、女を戦わせることは末代までの恥なのだ。

しかし、中野竹子らは「戦に加えてくれなければ、この場で自決します」と言って後に退かないため、家老・萱野権兵衛は仕方なく、旧江戸幕府軍の衝鋒隊への従軍を認めた。

会津藩の「什の掟」には、「年長者の言うことに背いてはなりませぬ」「ならぬことはならぬものです」という掟があるが、「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ」という掟があるとおり、「什の掟」は男子のための教えであり、女子には関係が無い。

実話「山本八重の桜」の会津編「実話-娘子隊の中野優子の暗殺計画-中野こう子が山本八重に激怒のあらすじとネタバレ」へ続く。

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