南摩綱紀の甥・南摩節が死亡

山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜-会津編」のあらすじとネタバレシリーズ「実話-娘子隊(婦女隊)と山本八重」編です。

このページは「実話-中野優子の暗殺計画-中野こう子が山本八重に激怒」からの続きです。

実話「山本八重の桜」の目次は『実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■若松城籠城戦の食糧事情
会津若松城に籠城する兵士は、女が握った握り飯を食べた。握り飯を作るときに手を付ける水に落ちた米は、お粥にちて負傷兵に与えた。女は地面に落ちた米を食べていた。

女性は会津若松城に籠城する5000人分の握り飯を作らなくてはならないため、相当な苦労であった。炊きあがった米を冷ます時間もなく、熱いまま握り飯を作るため、手の皮は焼けただれたという。

会津藩には医師の松本良順が滞在しており、負傷兵には牛乳や牛肉など栄養がある物が与えられた。

会津では猪や鹿の肉は食べても、牛肉を食べる習慣はなかったが、戊申戦争時の松平良順の指導が切っ掛けで、会津でも牛肉が食べられるようになった。

また、若松城篭城中に兵士が酔っ払って喧嘩をした記録があるので、酒はあったようだ。

当初はみんな玄米を食べたいたが、兵士が食べる玄米が無くなってはいけないため、途中から女性は所存食の道明寺粉を水で練って食べるようになった。会津藩は食料の更新をしていなかったため、道明寺粉はカビ臭かったという。

家老・佐川官兵衛の遊撃軍が若松城の城外を転戦し、若松城の南方に食料補給路を確保していたが、それでも食料は苦しかった。

1868年10月29日(慶応4年9月14日=籠城22日目)に新政府軍の総攻撃が始まると、会津藩の食料は益々厳しくなった。

当初はお新香や味噌などの副菜もあったが、やがて無くなり、会津藩士は手薄となった若松城の南方に命がけで大根を抜きに行った。

■南摩節の大根抜き
会津藩士の南摩綱紀(なんま・つなのり)の甥・南摩節(15歳)が、命がけで若松城の南方に大根を抜きに行った時のことである。

南摩節は沢山の大根を抜いて若松城へ戻ってくる途中で、小田山からの砲撃を受けた。南摩節は大腿骨を粉砕して歩けなくなり、仲間に背負われて若松城に戻ってきた。

山本八重が南摩節の手当てをしていると、知らせを受けて駆け付けた南摩家の使用人が、南摩節の姿を見て泣き出した。

すると、南摩節は痛がる様子も見せず、泣いている使用人に、「見苦しいぞ、泣くな。武士なのだから仕方が無いじゃないか」と叱咤した。

南摩節は15歳にして、山本八重も感心するほど立派な会津藩士であったが、出血多量で死んでしまった。

■子供たちの籠城戦
子供達は会津藩主・松平容保に夜襲に出ることを禁じられたが、子供にも大切な仕事があった。それは、城内での鉄砲や大砲の弾拾いだった。

籠城中の子供達は普段、戦争ごっこや凧揚げなどをして遊んでいた。若松城内では部隊の訓練をしており、兵隊の訓練が終わると、子供達は教官を捕まえて、フランス式の号令などを習った。

また、子供が挙げていた凧は、会津に伝わる「会津唐人凧(あいづとうじんたこ)」という凧で、凧揚げにも意味があった。

会津唐人凧とは、凧が舌を出した顔になっており、会津唐人凧には敵の士気を下げ、城内の士気を上げる役割があったという。

無邪気に遊ぶ子供達であったが、大砲の弾が飛んでくると、濡れた布を持って大砲の弾に駆け寄った。大砲の弾や銃弾を台所へ持って行くと、おにぎりと交換してくれるのだ。

これは「焼き玉押さえ」と言い、大砲の弾が爆発するかも知れない非常に危険な作業だったが、子供達は大砲の弾を見つけると、恐れること無く、濡れた布を持って近づいた。

■火薬を作る女
舎密術(せいみじゅつ=理化学)に通じる川崎尚之助が、城内の女性に火薬の作り方を教えており、女性は火薬を作りも担当していた。

竹筒に紙を巻き、一方の端を捻る。そして、もう一方から、火薬を入れて竹筒を抜き、端を捻ると出来上がりである。

女性は箱に詰めた火薬を運ぶとき、1箱を持つのが精一杯であったが、怪力の山本八重は1度に2箱を抱えて運んだ。

子供が集めてくる弾や女性が作る火薬は、籠城戦を戦う上での貴重な弾薬となっていた。まさに会津若松城の籠城戦は会津藩が一丸となっての総力戦だった。

実話「新島八重の桜」の会津編「米沢藩の仙台藩の降伏-奥羽越列藩同盟の崩壊のあらすじとネタバレ」へ続く。

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