実話-山本権八が戦死・一ノ堰の戦い

山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜-会津戦争編」のあらすじとネタバレシリーズ「実話-山本権八が戦死・一ノ堰の戦い」編です。

このページは「実話-山川トセの焼玉押さえ」からの続きです。

実話「山本八重の桜」の目次は『実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■実話-山本権八の出陣
「鬼の官兵衛」と恐れられる会津の猛将・佐川官兵衛の精鋭部隊が若松城の外でゲリラ戦を展開しており、会津藩は若松城の南方に食料の補給路を確保していた。

山本八重の父の山本権八(やまもと・ごんぱち=61歳)も、新政府軍の総攻撃を食い止めるため、伊予田図書が率いる玄武隊士中隊(50歳以上の藩士で構成する老人部隊)の一員として出陣し、若松城の南部で転戦していた。

一説によると、江戸時代の平均寿命は50年前後であり、61歳の山本権八は、老体に鞭を打っての出陣である。

■実話-一ノ堰(いちのせき)の戦い
一方、総攻撃により、会津若松城の外郭(がいかく=外側の城壁)を突破した新政府軍は、会津藩の食料補給路を断つため、若松城の南方へ兵を差し向けた。

1868年10月30日(慶応4年9月15日=籠城23日目=総攻撃2日目)、若松城の南部に向かっていた新政府軍の部隊は、若松城の南部で転戦していた会津藩の一瀬要人(いちのせ・かなめ)の軍と遭遇した。

若松城の南部で転戦していた他の会津軍も援軍に駆けつけ、会津軍は新政府軍を退けることに成功した。しかし、会津軍は一瀬要人など多くの指揮官を失ってしまう。

会津軍の猛反撃に敗走した新政府軍であったが、このまま会津藩の食料補給路を放置するわけにはいかず、兵を整えると、再び若松城の南方へと向かった。

1868年11月1日(慶応4年9月17日=籠城25日目)、若松城の南部に進軍した新政府軍は、一ノ堰に布陣している会津軍を発見する。新政府軍は2手に別れ、会津軍を挟み撃ちにした。

食料の補給路は会津藩の生命線であるため、会津軍は必死に抵抗するが、激戦に次ぐ激戦の末、敗走していまう。会津藩はこの「一ノ堰の戦い」で多くの指揮官を失い、大きなダメージを受けた。

伊予田図書が率いる玄武隊(玄武士中隊)の一員として出陣していた父の山本権八も、1868年11月1日(慶応4年9月17日=籠城25日目)に「一ノ堰の戦い」で死亡している。享年61歳であった。

会津藩士の多くは、出陣した日が命日と覚悟して、褌(ふんどし)に名前と日付を書いて出陣しており、戦死した会津藩士は褌を確認すれば身元と命日が分かるようになっていた。なかには札に名前と出撃日を書いて懐に入れる者も居た。

山本権八の褌については詳しいことは分からないが、命日がハッキリしていることから、山本権八も褌に名前と日付とを書いて出撃したと思われる。

そして、会津藩は「一ノ堰の戦い」での敗戦により、会津若松城の南方に確保していた食糧補給路を絶たれてしまう。

■実話-高田の戦い
1868年11月2日(慶応4年9月18日=籠城26日目)、新政府軍は高田を攻撃し、会津藩は外部との連絡路を絶たれる(高田の戦い)。

こうして、会津藩は食糧補給を失い、外部との連絡も絶たれ、完全に孤立したのである。

実話「新島八重の桜」の会津編「実話-若松城の落城(開城)-会津藩の降伏のあらすじとネタバレ」へ続く。