会津藩の降伏後の山本八重-生きていた山本覚馬

山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜-会津編の最終回」のあらすじとネタバレシリーズ「会津藩の降伏後の山本八重-生きていた山本覚馬」編です。

このページは「会津藩から斗南藩(となみはん)へのあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「山本八重の桜」の目次は『実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■若松城落城後の会津
会津藩士が住んでいた自宅は、会津藩が所有する社宅のようなもので、会津藩の降伏後は新政府に没収されたため、会津藩士の家族に帰る家は無くなった。

このため、明治政府は、会津に残った会津藩士の家族に塩川周辺の農地を割り振り、帰農を勧めた。

江戸時代は「士農工商」などの身分制度があり、会津藩士は会津藩の家名断絶にともない、「武士」(会津藩士)の身分を失うことになった。

このため、会津藩士は、農民や商人に身分を移す「帰農工商」をする必要があった(ただし、その後、松平容大は家名存続が許されたため、武士の身分を保った)。

■会津戦争後の山本八重
山本八重は会津藩が降伏したとき、会津藩士に混じって謹慎地の猪苗代へと向かったが、女だとバレしまい追い返された。

その後、自宅を失った山本八重は、母・山本佐久や姪「山本峰(山本覚馬の娘)」や嫂「山本うら(覚馬の妻=樋口うら)」とともに、山本家の奉公人だった者の家で世話になり、会津の山村で生活していた。

1869年12月5日(明治2年11月3日)に松平容大が家名存続を許され、青森県東部で斗南藩(となみはん)を立藩すると、謹慎が解けた会津藩士は1870年(明治3年)5月に斗南藩への移住を始めた。

しかし、山本八重は斗南藩へは行かずに会津に残った。会津に残った山本八重一家についての詳細は分からないが、針仕事や農業を手伝って、米や野菜を分けてもらいながら生活をしたとされている。

1870年(明治3年)11月ごろ、山本八重ら家族は、仙台に住む米沢藩士・内藤新一郎の元へ出稼ぎに行く。

米沢藩は戊申戦争時に米沢藩士を会津藩へ砲術修業に出しており、内藤新一郎も砲術修業で会津を訪れていた。

この米沢藩士に砲術を指南したのが、山本八重の夫で会津藩士の川崎尚之助であり、いわば、内藤新一郎は川崎尚之助の弟子だった。

さらに、戦況が悪化に伴い、川崎尚之助の元で修業していた米沢藩士は米沢に戻ったが、内藤新一郎は連絡役として会津に残り、山本八重らが若松城へ入城した日まで山本家に寄宿していた。

こうした縁で、山本八重らは内藤新一郎を頼って仙台を訪れた。この時の出稼戸籍簿に、山本八重は「川崎尚之助妻」として記録されていることから、山本八重が川崎尚之助と結婚していたことが証明されている。

■山本覚馬は生きていた
1871(明治4年)、山本八重が内藤新一郎の家で世話になっていたとき、「鳥羽・伏見の戦い」で死んだはずの兄・山本覚馬が京都で生きていることが判明する。

会津の新島八重らには、「山本覚馬は、京都の蹴上から大津ヘ向かう途中に薩摩軍に捕らえられ、四条河原で処刑された」と伝わっていたが、兄の山本覚馬が生きていたのだ。

どういう経緯で、兄・山本覚馬が生きていた事が判明したのかは判明していない。

山本覚馬は京都で京都府の顧問をしており、京都と米沢を行き来していた米沢藩士が、山本覚馬のことを山本八重に伝えたという説もある。また、山本覚馬から生存を知らせる手紙が届いたという説もある。

■山本八重が上京
1870年9月(明治4年7月)、山本八重は米沢県に通行手形を申請し、1870年9月17日(明治4年8月3日)に山本八重は母・山本佐久や姪(覚馬の娘)「山本みね」を伴って、3人で京都へ向かった。

しかし、山本覚馬の妻「山本うら」は離婚を望んで仙台に残り、その後、斗南藩へ移住した。

妻の「山本うら」が離婚を望んだ理由は不明だが、「山本覚馬が京都で若い愛人と暮らしている」という噂を耳にしたため、妻「山本うら」が離婚を望んだという説がある。

1971年(明治4年)10月、山本八重が母の山本佐久と姪(覚馬の娘)「山本みね」を連れて京都に到着する。山本八重は数年ぶりに兄・山本覚馬と再開するが、兄との再開は驚きの連続であった。

実話「山本八重の桜」の京都編「実話-山本覚馬のあらすじとネタバレ」へつづく。