実話-新島襄の生涯のあらすじとネタバレ

NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重(山本八重)の2番目の夫・新島襄の生涯の実話をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島襄の生涯のあらすじとネタバレ」編です。

このページは「山本八重と川崎尚之助の再会のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜-京都編」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■密出国した新島襄が帰国
京都府で小野組転籍事件が起きた翌年の1874年(明治7年)11月26日、新島襄(にいじま・じょう)がアメリカから横浜へ帰国する。

新島襄は、1864年6月14日(元治元年7月17日)に北海道の函館から脱国しており、10年ぶりの帰国だった。

■新島襄の生涯あらすじとネタバレ
新島襄は、1843年2月13日(天保14年1月14日)に江戸の安中藩屋敷で、父・新島民治と母・新島とみ(旧姓は中田とみ)との間に生まれた。

新島家は元々、「中島」という姓だったが、曾祖父が事件を起こして失踪したため、祖父の新島弁治が姓を「新島」と改めた(事件の内容は諸説ある)。

新島襄は帰国後に改名した名前で、子供の頃の名前は「新島七五三太(にいじま・しめた)」である。

新島襄の誕生日は旧暦の1月14日で、その日はしめ飾りを外す日だった。新島七五三太(新島襄)は、その日の早朝に生まれたため、「しめ飾り」から「七五三太(しめた)」と名付けられた。

しかし、一般的には、新島家には4人の娘が居り、新島七五三太(新島襄)は4人女の子が続いた後の待望の男児だったため、祖父の新島弁治が「しめた」と喜んだころから、「七五三太(しめた)」と名付けた、という噂が広がった。

なお、新島七五三太の姉は「新島くわ」「新島まき」「新島みよ」「新島とき」の4人である。

また、新島七五三太(新島襄)が生まれた4年後に、弟・新島双六が生まれている。

■新島襄の名前の変化
新島襄の幼名は「七五三太」で、元服後の諱(いみな)は「敬幹」である。元服後は「新島七五三太」や「新島敬幹」を使用した。

アメリカ時代は「ジョセフ・ニイシマ」または「ジョセフ・ハーディー・ニイシマ」を名乗った。

帰国後はジョセフに「約瑟」という漢字をあて、「新島約瑟」と名乗ったが、約瑟という漢字が難しいため、新島襄へと改名した。「ジョー(襄)」は「ジョセフ(約瑟)」を縮めたものという。

一時は「譲」の漢字を使用して「新島譲」としたが、松山高吉の助言を受けて「襄」の漢字を使用するようになり、戸籍を群馬県から京都府へ移す時に「新島襄」とした。

(注釈:新島襄の名前の詳細は「新島襄の名前の由来や理由」をご覧ください。新島襄の名前は変化しているが、ここでは都合上、特別な場合を除いて新島襄で統一する。)

■新島襄の父・新島民治
父の新島民治は、安中藩の下級藩士で、右筆(ゆうひつ)という仕事をしていた。右筆とは、文章で記録を残したり、武士の代わりに代筆をする書記の仕事であった。

また、父・新島民治は新島流の書道師範であり、自宅でも書道教室を開いていた。書道教室には男子だけでなく、女子も習いに来ていた。当時は、女子を受け入れる教室は珍しかったという。

父・新島民治は、新島七五三太(新島襄)を書道教室の後継者に育てるため、5歳の時から新島七五三太(新島襄)に書道を習わせていた。

■新島みよの足が不自由になる
3番目の姉・新島みよが、3歳の新島七五三太を背負っていたときに転んで足を痛めた。これ以降、新島みよは生涯、足が不自由となる。

■憎んでは打たぬものなり笹の雪
新島七五三太は6歳のとき、母・新島とみに用事を頼まれたが、用事をしなかった。母・新島とみに叱られると、新島襄は暴言を吐いた。

すると、祖父・新島民治は、新島七五三太を布団でグルグル巻きにして、押し入れに閉じ込めた。

祖父・新島民治は1時間後に新島七五三太を解放したが、新島七五三太が泣きじゃくっていたので、「憎んでは打たぬものなり笹の雪」という詩の意味を教え、「お前を愛しているから、お前を更正するために叱るんだ」という趣旨のことを例え話で言って聞かせた。

■新島ますが死ぬ
新島襄が8歳のとき、祖母・新島ますが死去した。享年70歳であった。貧しい者に施しをする優しい祖母であったという。

■新島襄の額の傷
新島七五三太(新島襄)は活発な子供で、8歳ごろ、遊んでいた時に転んで額(左のコメカミ)に大きな傷を作った。

新島七五三太(新島襄)は額に出来た傷を非常に恥ずかく感じ、2ヶ月間の引きこもり生活を送った後、乱暴な遊びとは縁を切り、勉強をするようになった。

■新島襄が礼儀作法を学ぶ
子供の頃の新島七五三太(新島襄)は人見知りが激しいうえ、どもることが多かったので、初対面の人と話すとき、しっかりと物を言うことが出来なかった。

このため、心配した両親が新島七五三太(新島襄)を礼儀作法の塾へと通わせた。新島七五三太は1年間、礼儀作法の塾へ通い、先生から大きな影響を受けた。

■新島襄が蘭学を学ぶ
第5代安中藩主・板倉勝明は漢学に精通しており、学問を推奨していた。このため、安中藩主・板倉勝明は学問所を開設し、学問・剣術・馬術の習得を義務化した。

新島七五三太(新島襄)は11歳になると剣術と馬術とを習い始めたが、14歳の時に武術を習うのを辞め、漢学の勉強に打ち込むようになった。

1856年(安政3年)、第5代藩主・板倉勝明は蘭学者・田島順輔を招き、有望な若手3人を選出して、田島順輔からオランダ語を学ばせることにした。

新島七五三太(新島襄)は若手3人に選ばれ、菅沼総蔵・岡村喜四郎と共にオランダ語を学ぶことになる。

しかし、1年後、蘭学者・田島順輔は江戸幕府に認められ、オランダ人から機械工学や航海術を学ぶため、長崎に行くことになる。これに伴い、新島七五三太(新島襄)のオランダ語の勉強は中断した。

■新島襄が元服
1857年(安政4年)、15歳になった新島七五三太(新島襄)は元服し、諱(いみな)を「敬幹」とする。以降も「新島七五三太」を使うこともあるが、ここでは「新島敬幹」で表記する。

1857年5月3日(安政4年4月10日)、5代藩主・板倉勝明が死去し、弟の板倉勝殷が6代藩主に就任する。

6代藩主・板倉勝殷は前藩主に見劣りしており、教育に力を入れないため、安中藩の教育政策は大きく後退してしまい、新島敬幹(新島襄)は勉強する機会が減ってしまう。

このため、新島敬幹(新島襄)は漢学の先生だった尾崎直記や添川廉斎を頼ろうとしたが、2人は1858年(安政5年)に相次いで死んでしまった。新島敬幹は悲しみに暮れた。

その後、親戚藩にあたる備中松山藩の藩儒・川田甕江(かわた・おうこう)が来藩し、臨時教師を務めるようになった。新島敬幹(新島襄)は川田甕江から漢学を学ぶことになる。

■新島敬幹(新島襄)が出仕
1858年(安政5年)、16歳になった新島敬幹(新島襄)は安中藩士として6代安中藩主・板倉勝殷に仕える。

新島敬幹(新島襄)の仕事は右筆補助(記録係)だったが、新島敬幹(新島襄)には出仕生活が苦痛でたまらなかった。

1859年(安政6年)、6代藩主・板倉勝殷は江戸幕府より大阪城の警備を命じられ、大阪へ行くことになる。父・新島民治も藩主に随伴して大阪へ向かった。

このため、残された新島敬幹(新島襄)は、父・新島民治が務めていた右筆と書道教室の先生を代行しなければならなくなった。

1859年(安政6)、新島敬幹(新島襄)はオランダ語の先生を見つけると、度々、仕事を抜け出してオランダ語を学びに行くようになる。

仕事を抜け出していることを上司に気づかれ、叱られるが、解雇して欲しいと願う新島敬幹(新島襄)は、度々、仕事を抜け出した。

新島敬幹(新島襄)にとって藩士としての仕事は苦痛の日々が続いたが、父・新島民治の帰藩に伴い、父親の代わりに行っていた仕事からは解放される。

実話「新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄の脱国物語のあらすじとネタバレ」へ続く。