実話-新島襄の名前の由来-ジョセフ・ニイシマの理由

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重(山本八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「新島八重の桜-京都編」のあらすじとネタバレシリーズ「新島襄の名前の由来-ジョセフ新島の理由」編です。

このページは「新島襄のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜-京都編」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■新島襄がアメリカに着く
1865年7月21日、新島敬幹(新島襄)がアメリカのボストンに到着する。このころ、アメリカは南北戦争が終わった数ヶ月後で、ボストンも疲弊していた時期だった。

南北戦争とは、奴隷制度の存続を主張するアメリカ南部11州が独立政権を発足しようとして、アメリカ政府と戦争になったアメリカの内戦で、1865年4月にアメリカン南部の敗戦で終戦を迎え、奴隷解放制度に繋がった。

一方、日本では、新島襄がアメリカに着いた1865年に、後の妻となる山本八重が1人目の夫・川崎尚之助と結婚している。

この3年後の1868年、日本でも朝敵となった会津藩が東北に独自政権を発足しようとしたが、明治政府軍に敗北している。後に新島襄の妻となる山本八重が、若松城に籠城したのは、この時のである。

■A・ハーディーとの出会い
新島敬幹(新島襄)はアメリカに着いたものの、南北戦争直後の荒れた時期で物価が高騰しており、日本人密航者の新島敬幹(新島襄)に仕事など無かった。

新島敬幹(新島襄)は頼る人間も居らずに困っていると、米船「ワイルド・ローバー号」の船長ホレイス・テイラーが、ワイルド・ローバー号の船主A・ハーディーとその妻を紹介してくれた。

A・ハーディーは銀行やハーディー商会を経営するボストンでも有数の資産家で、熱心なキリスト教(プロテスタントの会衆派)の信者(ピューリタン)だった。

ハーディー夫妻に、これまでも何人かの若者を支援していたが、途中で学業を投げ出す若者が多く、若者への支援は中止しようとしていたところだった。

しかし、船長ホレイス・テイラーが「今度こそは大丈夫。彼は真面目だ」と推薦するため、会うことにした。

新島敬幹(新島襄)はA・ハーディーに、英語でアメリカへ来た経緯を説明するが、新島敬幹(新島襄)の英語は通じず、A・ハーディーから英語で文章に書くように言われ、つたない英語で脱国した理由を手紙に書いて提出した。

若者への支援を中止しようとしていたハーディー夫妻だったが、新島敬幹(新島襄)がつたない英語で書いた脱獄理由を読み、その純粋な志にうたれて、新島敬幹(新島襄)を我が子同然として迎え入れることにした。

そこで、ハーディー夫妻が船長ホレイス・テイラーに新島敬幹(新島襄)の名前を尋ねると、船長ホレイス・テイラーは船中で使用人として働いていた新島敬幹(新島襄)を「ジャパニーズ・ボーイ」と呼んでいたため、困って「john(ジョン)」と答えた。

john(ジョン)には屈辱の意味もあったため、ハーディー夫妻が新島敬幹(新島襄)を「ジョセフ」と名付けた。

こうして、「ジョセフ・ニイシマ」という名前が誕生した。新島襄はハーディー家の一員であることを示すため、ハーディーの名前を入れ、「ジョセフ・ハーディー・ニイシマ」と名乗る事もあった。

こうして、ジョセフ・ニイシマ(新島襄)は船長ホレイス・テイラーのおかげで、ハーディー夫妻の支援を受けて学校へ通えるようになった。

なお、恩人の船長ホレイス・テイラーは、4年後の1869年12月11日に、岸壁と船の間に挟まれて死亡している。

■新島襄の名前の由来
アメリカ時代は「ジョセフ・ハーディー・ニイシマ」と名乗っていたが、帰国後は漢字にしなければならないため、ジョセフに「約瑟」という漢字を当て、帰国後は「新島約瑟」と名乗った。「約瑟」とは、聖書に登場する「ヨセフ(ジョセフ)」の漢訳聖書での表記である。

しかし、ジョセフの当て字「約瑟」が難しいため、「新島譲」へと改名した。その後、松山高吉の助言を受け、「譲」から「襄」へと変更し、「新島襄」という漢字を使用するようになった。

譲(Joe)は、聖書に登場する「ヨセフ(Joseph)」からアルファベット3文字を取った名前だという。

そして、実家がある群馬県から京都府へ戸籍を移す時に「新島襄」へと改名し、正式に新島襄と改名した。このとき、新島襄は武士から平民へと身分を落とした。

実話「新島八重の桜」の京都編「ジョセフ新島(新島襄)と森有礼」へ続く。

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