実話-新島襄の函館遊学のあらすじとネタバレ

NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重(山本八重)の2番目の夫・新島襄の生涯の実話をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島襄の函館遊学物語のあらすじとネタバレ」編です。

このページは「実話-新島襄の生涯のあらすじとネタバレ」からの続きです。

■新島敬幹(新島襄)の脱藩を断念
1860年(萬延1年)、6代藩主・板倉勝殷が警護を引き連れて安中(群馬県)に行く。新島敬幹(新島襄)は警護の1人に選ばれ、藩主・板倉勝殷に随伴して安中へ向かった(参勤交代)。

藩主・板倉勝殷は籠に乗っていたが、警備の者は徒歩だった。仕事が嫌いで参勤交代の苦役に耐えられない新島敬幹(新島襄)は、脱藩を考えるようになった。しかし、家族のことを思うと、脱藩することは出来なかった。

■新島襄の病気
仕事の量が増えて職場を抜け出せなくなると、新島敬幹(新島襄)は心因性の病気になって休職する。

しかし、休職中に洋学書を読んでいると気分が晴れてきて、3ヶ月程すると病気が改善したため、仕事に復帰する。

新島敬幹(新島襄)は仕事に復帰したが、勉強する時間が無くなったため、夜中に蘭学書を読むことにした。これが原因で、目を痛めてしまい、勉強は中断する。

やがて、眼病が改善したため、勉強を再開するが、洋学書に出てくる計算が分からないため、安中藩の許可を得て、江戸幕府が開いた軍艦教授所へ通い、数学や航海術を学ぶようになる。

■新島襄とジョン万次郎
このころ、軍艦教授所では、アメリカで10年間を過ごして帰国したジョン万次郎(中濱萬次郎)が数学や航海術を教えていた。

新島敬幹(新島襄)はジョン万次郎(中濱萬次郎)からアメリカの話を聞き、大きな影響を受けた。新島敬幹(新島襄)に脱国の方法を教えたのも、ジョン万次郎だったと言われている。

■新島襄は開国派(倒幕派)
1860年(萬延1年)、新島敬幹(新島襄)は話しに聞いていたオランダ軍艦を観て、外国人は非常に優秀だと悟る。

当時は外国との貿易のせいで物価が高騰していたため、新島敬幹(新島襄)は、日本人は外国で貿易を勉強するべきだと考えていたが、幕府がこれを禁じていたため、幕府を倒すべきたと考えるようになった。

新島敬幹(新島襄)は討幕派(開国派)だったが、安中藩が佐幕派であったため、「倒幕派に加わりたい」と思いながらも、佐幕派として行動した。

■新島襄は病魔の囚人
1862年(文久2年)、新島敬幹(新島襄)は江戸で流行していた麻疹(はしか)にかかり、軍艦教授所を退学する。

麻疹が完治したため、甲賀源吾の甲賀塾へ入り、測量や数学などを学ぶが、麻疹にかかった影響で目を悪くしたうえ、頭痛や不眠に悩まされるようになり、勉強を中断することとなる。

以降の新島敬幹(新島襄)を悩ませる数々の病気は、この時にかかった麻疹が原因とされている。新島敬幹(新島襄)は病気に悩まされ続け、後に自分の事を「病魔の囚人」と評している。

■新島襄の玉島紀行
安中藩で新島敬幹(新島襄)に漢学を教えていた備中松山藩士・川田甕江は、若くして50石で備中松山藩(岡山県)の藩儒に取り立てられた優秀な人物だった。

川田甕江は備中松山藩の人間であるが、備中松山藩は安中藩とは親戚関係にあったため、川田甕江は藩の教師が不足している安中藩に漢学を教えに来ていた。

(注釈:安中藩主・板倉家は、備中松山藩・板倉家の分家にあたる)

川田甕江は安中藩で臨時教師をする一方で、備中松山藩主・板倉勝静の命令で西洋船の購入を担当していた。

そして、川田甕江は、1862年(文久2年)に1万8000ドルでアメリカから西洋船「快風丸」を購入することに成功した。

西洋船「快風丸」を購入した川田甕江は、試運転を兼ねた処女航海に出るために船員を探すことにした。

そこで、川田甕江は、軍艦教授所や甲賀源吾の甲賀塾で航海術や測量術を学んでいた教え子の新島敬幹(新島襄)に声をかけたのである。

安中藩主・板倉家は備中松山藩・板倉家の分家に当たるため、簡単に許可が下り、新島敬幹(新島襄)は西洋船「快風丸」に乗ることになった。

1862年(文久2年)末、19歳の新島敬幹(新島襄)を乗せた西洋船「快風丸」が出向する。江戸から玉島(岡山県倉敷市)まで往復する2ヶ月に渡る船旅である。

新島敬幹(新島襄)は江戸藩邸という四角い世界に閉じ込められている事を苦痛に思っていたが、この航海で様々な経験をして視野を広げ、心は脱藩に傾いていった。

■聖書との出会い
1863年(文久3年)、西洋船「快風丸」の航海から戻った後、新島敬幹(新島襄)はオランダ語の勉強を始め、新たな友達も出来ていた。

新島敬幹(新島襄)は、その友達からロビンソン・クルーソー物語を借りて、冒険心をかき立てられる。

しかし、新島敬幹(新島襄)が祖父の新島弁治にロビンソン・クルーソー物語を読ませると、祖父の新島弁治に「このような本を読めば道を誤る」と叱られた。

また、新島敬幹(新島襄)は、宣教師ブリッジマンが漢語でアメリカの歴史について書いた「連邦志略」を読み、アメリカでは大統領を選挙で選ぶことを知り、アメリカに強い興味を抱くようになる。

そして、新島敬幹(新島襄)は聖書の重要な部分だけを抜き出した漢訳聖書の小冊子を読み、この世界は偶然に出来たのではなく神の手によって創造された事を知り、「天父」の存在に感銘を受け、英語で書かれた聖書が読みたいと思うようになる。

(当時はキリスト教が禁止されていたが、密かに聖書の研究が行われており、漢訳聖書は秘密裏に流通していた。聖書を読んでいることが見つかると打ち首になるため、新島敬幹は夜中に自宅で密かに聖書を読んだ。)

■新島襄の函館行き
1864年(元治元年3月)、新島敬幹(新島襄)は江戸で、西洋船「快風丸」の処女航海の時に知り合った、備中松山藩士の加納格太郎ら3人と出会う。

加納格太郎は新島敬幹(新島襄)に、4日~5日のうちに西洋船「快風丸」が函館に出発することを教え、「一緒に行かないか?」と誘った。

函館へ行けば英語の聖書を読めると思った新島敬幹(新島襄)は、「期間が短いので藩主や父親の許可が得られるか分からないが、やってみる」と答えて別れた。

第6代安中藩主・板倉勝殷からは函館行きの許可が貰えない事は目に見えていたため、新島敬幹(新島襄)は旧友の備中松山藩士・塩田虎尾の元を訪れ、「快風丸に乗れるように、備中松山藩主・板倉勝静に頼んで欲しい」と頼んだ。

塩田虎尾は快く応じ、備中松山藩の上司に直訴したところ、備中松山藩・板倉勝静は新島敬幹(新島襄)の心意気を褒め、第6代安中藩主・板倉勝殷に書状を送った。

安中藩・板倉家は備中松山藩・板倉家の分家に当たるため、安中藩主・板倉勝殷はこれを拒否することが出来ず、函館遊学を認めて、給料の他に15両を新島敬幹(新島襄)に与えた。

新島敬幹(新島襄)の心意気に感心した備中松山藩・板倉勝静は、特別な計らいで、手紙に「返事は即答」という条件をつけてくれたため、短期間のうちに新島敬幹(新島襄)の函館遊学の許可が下りた。

こうして、新島敬幹(新島襄)は西洋船「快風丸」の出向に間に合い、西洋船「快風丸」は1864年(元治元年3月11日)に出向した。

■新島襄の性体験
1864年(元治元年4月11日)、方々に立ち寄りながら函館を目指す西洋船「快風丸」が、鍬ヶ崎港(岩手県宮古市)に立ち寄った。鍬ヶ崎港は家ごとに3~4人の女が居る遊郭だった。

新島敬幹(新島襄)は鍬ヶ崎港で「海の魔物」に襲われて、お金を失ている。

一説によると、「海の魔物」とう女郎のことであり、新島敬幹(新島襄)は鍬ヶ崎港で商売女と性体験をしたというが、詳細は分からない。

実話「新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄の脱国物語のあらすじとネタバレ」へ続く。