実話-帰国した新島襄のあらすじとネタバレ

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-帰国した新島襄のあらすじとネタバレ」です。

このページは「新島襄の5000ドルの寄付金-2ドルの精神のネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■ジョセフ・ニイシマが帰国
1874年(明治7年)11月26日、アメリカで5000ドルを集めたジョセフ・ニイシマ(新島襄)は日本の横浜に帰国する。

(注釈:ジョセフ・ニイシマは帰国後、「ジョセフ」に「約瑟」という漢字を当て、「新島約瑟」と名乗り、その後、「新島譲」を経て「新嶋襄」へと改名しているが、ここからは新嶋襄で表記する。)

帰国した新島襄は故郷の安中(群馬県)へ急ぐため、東京には余り滞在せず、人力車を走らせた。新島襄は3台の人力車を雇い、このうち2台は荷物用であった。

■新島家が回心
新島襄は、実家の新島家に帰国すると両親や家族にキリスト教の教えを説いた。すると、新島襄の家族は回心し、この日から、日本の神や先祖を崇拝するのを止めた。

新島襄は父・新島民治の許可を得て、神棚にあった偶像やお札を全て燃やした。回心した母「新島とみ」も、御札を火鉢に投げ入れた。

新島襄こと本名・新島七五三太は「しめ縄」から「七五三太(しめた)」と名付けられたが、新島襄の手によって新島家にあった偶像やお札などの類いは全て排除されてしまった。

■新島襄の布教活動
新島襄が実家の安中(群馬県)の新島家に着くと、近所の人がアメリカの話を聞くために押しかけてきた。

やがて、新島襄は学校や民家やお寺でキリスト教の教えを話すようになった。

明治政府は切支丹邪宗門禁制と廃止していたが、群馬県知事が新島襄の布教活動に困惑して明治政府に問い合わせたところ、「新島ならよろしい。やらせておけ」という回答であった。

このため、新島襄の布教活動は邪魔されることは無く順調に進んだ。この時の活動が、1878年(明治11年)に安中教会が誕生する切っ掛けとなる。

ある時は、地域の僧侶全員が集まり、仏教徒や女子供も合わせて200人もの人間が、新島襄の話を聞きに集まった。また、ある時は役人達も団体で新島襄の話を聞きに来た。

新島襄の話を聞いた人の中には帰って直ぐに、神棚から御札などと取り払い、神棚を拝むのを止めるような人も続出した。「東京へ行ったとき、聖書を買ってきて欲しい」と言ってお金を出す者もいた。

■新島襄は大阪へ
安中(群馬県)での布教活動はかなりの手応えであった。新島襄は「この地域のほとんどの人をキリスト教徒に出来る」と考えるほど、新島襄の布教活動は成功していた。

このため、新島襄は神戸で布教活動を行う宣教師グリーンに手紙を送って、安中(群馬県)に滞在する許可を求めるが、宣教師グリーンは「大阪へ向かい、宣教師ゴートンと合流するように」と指示した。

新島襄の所属する宗教団体「アメリカン・ボード」が日本に初めて宣教師を派遣したのは、1869年(明治2年)に派遣した宣教師グリーンであった。

このとき、既にアメリカン・ボードは日本進出に出遅れており、東京には他のプロテスタント系会派が既に進出していた。

そこで、宣教師グリーンは他のプロテスタント系会派が進出していない関西地方に目を付け、神戸をアメリカン・ボードの拠点とすることにした。

新島襄が帰国した時には、既に宣教師グリーンは大阪にキリスト教学校を建設することを決めており、宣教師ゴートンを大阪に赴任ヘ派遣し、新島襄の到着を待っていた。

このため、新島襄は安中(群馬県)を離れて、宣教師ゴートンが居る大阪へ向かったのである。

実話「新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄と山本八重の出会いのあらすじとネタバレ」へ続く。