烈婦!新島八重の悪妻列伝!新島襄も嫌われていた

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「明治の烈婦!新島八重の悪妻列伝!新島襄も嫌われていた」です。

このページは「実話-熊本洋学校の物語-熊本バンドの誕生と同志社のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■新島八重も新島襄も村八分
新島はん言う人は、メリケンはんを連れてきて、京都でドえらい事をしてはるわ。あないなことをしてたら、いつか罰が当たりはるやろ。みんはん、新島はんに近寄ったらあきまへんで。

京都人は、京都でキリスト教を広めようとする新島八重や新島襄のことを、気持ち悪がり、誰も近づかなかったという。

■新島襄は嫌われていた
新島襄は、仏教徒から嫌われていただけでなく、外国人宣教師からも嫌われ、軽んじられていた。新島襄が宣教師に嫌われていた理由は、「同志社の運営資金」「新島襄の給料」「聖書の授業の削除」などにあった。

新島襄が遺書にも書き残すことになる「日本人教師と外国人宣教師の軋轢」の火種は、同志社英学校の設立当初からあったのだ。

■同志社の所有者
新島襄は、キリスト教団体「アメリカン・ボード」の年大会のスピーチで、キリスト教学校の設立を訴え、5000ドルの寄付を集めて帰国し、山本覚馬の協力を得て、同志社英学校を設立した。

建前上は新島襄のスピーチで寄付が集まったことになっているが、実際は5000ドルのほとんどがアメリカン・ボードの理事が寄付してたものである。

これは、新島襄の面倒を見ていたA・ハーディーがアメリカン・ボードの理事をしており、A・ハーディーが新島襄のためにアメリカン・ボードの理事に寄付を根回ししていたから、寄付が集まったのである。

さらに、教師の給料は全てアメリカン・ボードから出ているうえ、同志社英学校は生徒不足で採算が取れず、同志社英学校はアメリカン・ボードからの援助で運営されていた。

当時は外国人が日本人を雇用することができないため、名義上の校長は新島襄になっていただけで、外国人宣教師は「アメリカン・ボードが同志社英学校を設立した」と考えており、新島襄を同志社英学校の設立者とは見ておらず、助手程度にしか考えていなかった。

だから、外国人宣教師は、同志社英学校のことを「京都ミッション・スクール」と呼び、「同志社英学校」とは呼ばなかった。

また、外務卿(外務大臣)の寺島宗則も、同志社英学校を外国人が設立・運営していたいる学校として、同志社英学校を廃校に追い込もうとしていた。

■新島襄の給料
通常の宣教師はアメリカン・ボードから給料をもらうシステムになっていたが、新島襄だけはアメリカン・ボードの理事で養父のハーディー夫妻からも個人的に給料をもらっていた。

このため、新島襄は準宣教師という宣教師よりも低い身分でありながら、宣教師よりも多くの給料を貰っており、在日宣教師から妬まれていた。

ちなみに、新島襄は同志社の社長だが、給料はアメリカン・ボードから準宣教師としての給料を貰っていただけで、同志社からは給料は出ていない。

同志社英学校で教師をしていた在日宣教師も、アメリカン・ボードから宣教師としての給料のみで、同志社から教師としての給料は出ていない。

当時の日本は治安が悪かったため、外国人を雇うためには高額な給料を支払わなければならなかったが、在日宣教師なら給料を払う必要が無いため、同志社は外国人教師を雇うことができたのである。

■聖書の授業の削除
新島襄は同支社英学校の許認可と引き替えに、カリキュラムから聖書の授業を削除した。

聖書の授業を削除されたことについて在日宣教師デイビスは、「そのような条件をのむのであれば、右手を切り落とした方がましだ」と激怒している。

アメリカン・ボードは伝道主義であり、宣教師は牧師を育成する「キリスト教学校」を設立するものと考えていた。

しかし、新島襄が設立した同支社英学校はキリスト教の思想を取り入れた「キリスト教主義学校」だったうえ、カリキュラムから聖書(聖経)の授業を削除していた。

このような遺恨が「日本人教師と外国人教師との対立」に発展しており、後々まで新島襄を悩ませた。

新島襄は外国人宣教師と日本人教師との対立に苦労し、遺書に「日本人教師と外国人教師との関係についてはできるだけ調停の労をとり、両者の協調を維持すること。これまで私は何回も両者の間に立って苦労した」と残した程である。

■新島襄は実業家
新島襄の目標は大学の設立だった。新島襄は大学設立運動を展開したさい、大学名を「同志社大学」から「明治専門学校」へと変更した。
これは、「同志社」という名称にはキリスト教のイメージが付いており、キリスト教を嫌う財界人から寄付が集めにくいという理由があった。

寄付集めに奔走する新島襄は、準宣教師という立場よりも実業家としての側面が強くなってきた。このため、新島襄はキリスト教関係者から嫌われるようになった。

■新島襄とキリスト教
新島襄は「日本を発展させるためには、教育とキリスト教(プロテスタント教)が必要だ」と考えており、キリスト教そのものよりも、キリスト教の思想が大事だったようだ。

(ちなみに、新島襄は、神のみを信仰するプロテスタント教は国を繁栄させるが、ローマ法をも信仰するカトリック教は国を滅ぼす、と考えていた。室町時代にザビエルが伝えたのはカトリック教である。)
新島襄は学校設立とキリスト教の関連について「同志社大学設立の趣意書」に、次のように述べている。

「もしも同志社大学の設立をもってキリスト教を普及させる手段とか伝道師養成の目的とみなす人がいたら、それは私たちの考えを理解しない人たちである。私たちの志すところは、さらに高い。私たちはキリスト教を広めるために大学を設立するのではない。ただキリスト教主義には、本当に青年の精神と品行とを磨く活力が備わっていることを信じて、この主義を教育に適応し、さらにこの主義でもって品行を磨く人物を養成したい、と願うだけである」

■新島八重が悪妻と呼ばれる理由
新島襄は、アメリカで見たクリスチャン・ホームのような家庭を目指しており、男女協同一致を理想としていた。

このため、新島襄は、男尊女卑の残る京都でレディーファーストを実践し、アメリカ式の夫婦関係を築いていた。

新島襄は妻・新島八重のことを「あなた」「八重さん」と呼ぶのに対して、新島八重は夫・新島襄を「ジョー」と呼び捨てにした。

また、人力車に乗る時は、夫・新島襄が「貴女、お乗りになりますか」と言って手を出しだし、妻・新島八重が先に乗り込んでした。

しかし、男尊女卑の根強い明治時代にアメリカ式の夫婦関係は世間では受け入れなかった。このため、新島八重は「悪妻」「烈婦」と批判されたのである。

■耶蘇教(キリスト教)は普及しない
ある日、いつものようにレディーファーストで新島八重が先に人力車に乗り込み、続いて新島襄が人力車に乗り込んだ。このとき、新島八重の体重が重いせいか、その人力車は後方に転倒してしまった。

新聞はこの事件を「耶蘇教(キリスト教)は普及しない。なぜなら、新島襄は天に足を向けたから」と大きく報じた。新島襄らは、新聞でも大々的に批判されていた。仏教界はこの報道を見て、勝ちどきを上げたという。

■新島八重は村八分
京都は仏教色の強い土地だったため、キリスト教徒の新島襄や新島八重は、村八分(絶交)の状態にあった。

新島家に訪れる者は同志社関係者だけで、近所の者が新島家を訪れることはなかった。

また、新島八重が町を歩いていると、新島八重に気付いた人たちは、逃げてしまう有様だった。

しかし、新島八重はそのようなことには動じず、いつも堂々としていた。

■新島襄は愚直一筋の耶蘇坊主
新島八重も「悪妻」「烈婦」「鵺(ぬえ)」などと色々な渾名で呼ばれたが、新島襄にも渾名があった。新島襄は「耶蘇(キリスト)の奴隷」「愚直一筋の耶蘇坊主」「病魔の囚人」などと呼ばれた。

また、新島襄は大きな革の鞄を提げていたため、郵便配達員に間違わることもあった。

■新島八重は同志社の生徒から嫌われていた
山本八重は同志社英学校の生徒から嫌われていた。同志社英学校の学生は、新島八重のことを「鵺(ぬえ)」と呼んで批判した。

鵺(ぬえ)とは、顔は猿で、胴体は狸、手足は虎、尾は蛇という得体の知れない妖怪である。

新島八重は、着物を着ていたが、西洋の帽子を被り、ハイヒールを履いて、西洋とも和風とも言えぬ、奇妙奇天烈な格好をしていた。

このため、同志社英学校の学生・徳富猪一郎(徳富蘇峰)は、新島八重のことを「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺(ぬえ)のような女性」と批判した。

なお、新島八重を鵺と呼ぶのは、「八重(やえ)」と「鵺(ぬえ)」の韻を踏んだ言葉遊びにもなっている。山本八重を山本鵺と呼んでいたか、どうかは分からない。

一方、同志社英学校の学生・徳富健次郎(徳冨蘆花)も、山本八重のことを「脂ぎった赤い顔」「目尻の下がったテラテラと光る赤い顔と相撲取りのような体」「ねちねちとした会津弁」などと批判している。

また、徳富健次郎(徳冨蘆花)は新島八重について、「先生夫人の評判は学生間には甚よくなかった。一廉の内助のつもりで迎えた夫人が思いの外で、先生の結婚は生涯の失望である、と云う事が誰言ふとなく伝えられた」と書き残している。

他方、女性宣教師スタークウェザーも新島八重のことを、「反キリスト教的な考えが根付いている」と批判していた。

しかし、新島八重は様々な批判を受けていたが、批判などに動じることなく、自分が信じる道を突き進んだ。新島八重の生き様は、国禁を犯しても自分が信じる道を進んで脱国した新島襄の様であった。

実話「新島八重の桜」の京都編「新島八重は薩摩の生徒が嫌いだった!カルタ大会の冷遇のあらすじとネタバレ」へ続く。