新島八重は恐怖の三島通庸!鬼の三島総監

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-新島八重は恐怖の三島通庸!鬼の三島総監事件」です。

このページは「新島八重ノ脂肪ヲ減スルノ法のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』です。

■新島八重は三島総監
新島八重は夫の新島襄が余命宣告を受けて以降、新島襄の体調を厳しく管理し始めた。このため、新島襄は新島八重のことを「三島総監」「三島巡査」と呼んで恐れていた。

「三島総監」とは、山形県令や福島県令時代に「土木県令」「鬼県令」と恐れられ、山形県や福島県では嫌われている警視総監の三島通庸(みしま・みちつね)のことである。

三島通庸は薩摩藩出身で、東京都の参事などを歴任した後、1874年(明治7)に酒田県令(山形県知事)に着任。1882年(明治15)には福島県令に就任し、1883年(明治16)には栃木県令を兼任していた。

三島通庸は経済に対する道路(物流)の重要性を認識しており、県をまたいでの貫通道路やトンネルを開通したほか、鉄道なども計画するなどして、東北の発展に貢献した。

しかし、三島通庸はこれらの土木事業について、農民に労役を強制したため、山形県や福島県では「土木県令」「鬼県令」と恐れ嫌われ、暗殺未遂事件まで起きている。

ただ、現代と違って、明治時代は暗殺が日常茶飯事で、多くの人が暗殺されているため、暗殺は珍しいことではない。

熊本バンドのメンバー伊勢時雄の父親・横井小楠も「キリスト教を広めようとした」という理由で、1869年(明治2年)に暗殺されている。

また、新島襄を支援していた文部大臣の森有礼も「伊勢神宮で不敬を働いた」という理由で、1886年(明治19年)に暗殺されている。

新島八重(山本八重)の兄・山本覚馬も京都府顧問時代は暗殺の標的になっていたのだが、山本覚馬は盲目で車椅子生活だったため、難を逃れた。

日本で働く外国人(お雇い外国人)も暗殺の標的になっており、刺客から身を守るため、用心棒を雇っている外国人が多かった。

こうした背景があるため、外国人を雇うには高額が必要で、時代と共に外国人の給料は下がっていくが、山本覚馬が京都府顧問をしていたころは、外国人の教師を雇うには山本覚馬の給料の何十倍もの給料が必要だった。

新島襄が同志社英学校で外国人教師を雇えたのは、全員がアメリカの宗教団体「アメリカン・ボード」が派遣する宣教師だったからだった。

同志社英学校の外国人教師は全員が在日宣教師なので、給料は全てアメリカの宗教団体「アメリカン・ボード」が負担していた。

新島襄もアメリカン・ボードの準宣教師なので、同志社からの給料は無く、アメリカン・ボードから給料を貰っていた。

当時の文部相は外国人宣教師を教師に雇用することを禁じていたのだが、新島襄の場合は岩倉使節団で知り合った田中不二麿が文部大輔(文部大臣)を務めていた関係で、特例により宣教師の雇用が認められていた。

さて、暗殺の標的に成りながらも東北の発展に貢献した三島通庸は1885年(明治18)に警視総監に就任しており、新島襄は、手紙を厳しく取り締まる新島八重のことを三島通庸に例えて「三島総監」と呼んで恐れたのである。

■新島襄と恐怖の三島総監
新島襄の父親は安中藩の右筆(書記係)で、自宅でも書道教室を開いていた。このため、新島襄は5歳の時から習字(新島流)を習わされていた。

新島襄も元服すると、安中藩で右筆補助の仕事をするのだが、安中藩の仕事が嫌で嫌でたまらなくなったため、アメリカへ脱国してしまった(聖書の勉強というのは、最後の1推しに過ぎない)。

新島襄は書道教室の仕事も右筆の仕事も嫌いだったのだが、何の因果か筆まめで、寝る間を惜しんで手紙を書いており、46年間の生涯で600通以上の手紙を残している。

「病魔の囚人」と言われる新島襄は、少年期に悪い麻疹(はしか)にかかって以降、脳病・眼病・リュウマチなどの病気に悩まされ続けたが、病床でも寝る間を惜しんで手紙を書いていた。

これまでは新島八重も強くは注意しなかったのだが、新島襄が余命宣告を受けたことを切っ掛けに、新島襄を監視し、手紙を書くことを厳しく取り締まりはじめた。

新島八重は新島襄が手紙を書いているのを見つけると、直ぐに筆を取り上げてしまうため、新島襄は手紙が書けなくなってしまった。客人が来ても十分に話させてくれない。

そもそも、新島襄は体調を管理しもらうために新島八重と結婚したのだが、手紙まで禁止されたため、恐怖の三島総監に弱り果てた。

そこで、新島襄は未明に起き出して手紙を書くのだが、それでも足りず、新島八重が外出している間に手紙を書くことにした。

ある日、新島襄はいつものように新島八重に用事を頼み、新島八重を外出させて手紙を書いていた。鬼の居ぬ間に洗濯ならぬ、三島総監の居ぬ間に手紙である。

新島襄は新島八重が外出している間にシコシコと手紙を書いていたのだが、スーッと扉が開き、新島八重が現れた。

新島襄の行動を不審に思った新島八重は途中で引き返してきたのである。ついに、新島襄は鬼の三島総監に現行犯で逮捕され、筆を取り上げられしまうのであった。

実話「新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄の最後の聖戦」へ続く。