実話-松平容大が同志社に入学

NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる新島八重の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「実話-松平容大が同志社に入学」です。

このページは「実話-山本久栄と徳富健次郎(徳冨蘆花)の生涯のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』です。

■松平容大と同志社
新島八重(山本八重)が会津出身だったためか、同志社英学校には会津出身の生徒が在席していた。新島八重が薩摩出身の生徒を冷遇し、会津出身の生徒を優遇したのは有名である。

さて、多くの会津出身者が同志社に学んでいる。実は、会津藩主・松平容保の実子で長男の松平容大(まつだいら・かたはる)も、1888年(明治21年)に同志社英学校へ入学している。

松平容大は会津藩敗戦後の翌年に生まれたが、母体の中で戊辰戦争を経験している。松平容大の誕生日は1869年7月11日なので、妊娠期間の280日を逆算すると、1868年10月ごろに妊娠したことになる。

会津藩は1868年10月8日から1868年11月7日まで、若松城籠城戦をしているので、松平容大が早産でなければ、若松城籠城戦の最中に妊娠した子供である。

戊辰戦争で負けた会津藩・松平家は家名断絶となるのだが、その後、1869年(明治2年)に松平容大に家名存続が許され、1870年(明治3年)に松平容大はわずか3歳で斗南藩の藩主となった。

会津藩の新天地となる斗南藩は不毛の地で、旧会津藩士は苦しい生活が強いられており、松平容大は幼少ながら御家復興の重責を一身に背負った。

1871年(明治4年)には父・松平容保の謹慎が解け、松平容保も斗南藩へ入るが、同年に廃藩置県のため、斗南藩は廃藩となり、松平容大らは東京へと移った。

松平容大は不遇な幼少期を過ごしたため、藩主の嫡子としての乳母日傘の生活を経験していなかった。また、幼少にして、御家復興の重責を背負ったため、不羈奔放(ほんぽうふき)に育った。松平容大は家臣の注意を聞かない問題児だったという。

困った父・松平容保は、旧会津藩士の山川浩や山本覚馬に松平容大の教育方針を相談した結果、「教育の厳しいキリスト教の学校で学ばせるべき」ということになった。山本覚馬の助言だったようだ。

こうして、父・松平容保は、山本覚馬を通じて新島襄に松平容大の入学を依頼したため、松平容大は同志社英学校に入学することになった。

また、同志社に在学中の会津出身の兼子重光に、松平容大の補育役(養育係)を任せた。

■兼子重光(かねこ・しげみつ)
兼子重光は、県民に過酷な労働を強いたり、県民を弾圧した「鬼県令」「土木県令」と呼ばれた福島県令の三島通庸(みしま・みちつね)に対抗した民権運動家である。

兼子重光は、民権運動を取り締まった「福島事件(喜多方事件)」で逮捕されて投獄されたが、その後、無罪となって出所し、その後、山本覚馬に拾われて同志社に入学していた。

■松平容大の退学事件
松平容大は同志社英学校に入学するが、正式入学前の1888年(明治21年)1月に大阪にある遊郭へ行ったことが判明し、同志社英学校の校則に抵触したとして、退学問題へと発展する。

外国人教師(在日宣教師)は松平容大の退学を決定したが、兼子重光を中心とした同志社英学校の生徒33名が署名嘆願書を提出するなどしたため、松平容大は退学を免れ、同志社英学校に正式入学することになる。

ただ、松平容大は同志社在学中、兼子重光の助言だけは聞き入れたが、かなりの問題児だったようだ。

松平容大は1年ほど同志社英学校に在席したが、1889年(明治22年)に父・松平容保から「徴兵の関係で学習院へ転校する」という申し出があり、松平容大は同志社英学校を退学して学習院へ入学した。

その後、松平容大は陸軍に進み騎兵大尉にまで昇進し、後に貴族院議員になった。

一方、兼子重光は同志社を卒業後、会津にある若松教会の牧師なり、、会津でのキリスト教伝道に活躍した。

実話「新島八重の桜」の京都編「実話-新島襄の余命宣告のネタバレのあらすじとネタバレ」へ続く。