新島八重の孫・新島襄次

NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる新島八重(山本八重)のあらすじとネタバレを紹介する実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレの京都編「新島八重の孫・新島襄次」です。

(注釈:以前は「新島襄治」と表記していましたが、八重のひひまごさんのご指摘により「新島襄次」へと修正しました。「新島襄治」ではなく、「新島襄次」が正しいそうです。)

このページは「実話-新島八重の養子(養女)の甘粕初子と広津友信」からの続きです。

実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■新島八重の孫・新島襄次
新島八重(山本八重)には2度、結婚していたが、子供を産んでいないため、新島八重の血を継ぐ子孫はいない。しかし、新島襄の死後、養子・養女を迎えているため、義理の子孫が居る。

新島八重(山本八重)の義理の孫は数人居り、新島八重は義理の孫の1人に新島襄の後を継がせようと思い、義理の孫に「新島襄次(にいじま・じょうじ)」と名付けて寵愛した。

新島襄次も新島八重に懐いており、子供の頃から、新島襄のように勉強して新島襄が卒業したアメリカの大学へ入るなどと言い、新島八重を喜ばせていた。

孫の新島襄次は新島襄に負けず劣らず優秀で、帝国大学へ進み、新島襄の後継者として期待されていたが、帝国大学在学中に2週間の患いの末、脊髄脳膜炎を発症し、1925年(大正14年)6月22日に23歳の若さで死去してしまった。

新島八重は、夫の新島襄に続き、新島襄を継がせようと思っていた義理の孫・新島襄次にも先立たれ、大いに悲しんだのであった。

実話「新島八重の桜」の京都編『実話-新島八重の「恩返し」のあらすじとネタバレ』へ続く。

コメント欄

新島襄治ではなく、正しくは新島襄次です。

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  • 八重のひひまご

■八重のひひまごさんへ
ご指摘ありがとうございます。新島襄治を新島襄次へと訂正しました。

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  • 管理人