花森安治の生涯-妻・山内ももよと結婚のあらすじとネタバレ

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」のモデルとなる大橋鎮子(大橋鎭子)の生涯を描く実話「とと姉ちゃん 大橋鎮子(大橋鎭子)と花森安治の生涯」の花森安治編「花森安治の生涯-妻・山内ももよと結婚」です。

このページは「花森安治の生涯のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「とと姉ちゃん 大橋鎮子(大橋鎭子)と花森安治の生涯」の目次は「とと姉ちゃん 大橋鎮子(大橋鎭子)と花森安治の生涯」をご覧ください。

■花森安治の東京帝国大学時代

旧制高校はエリートコースで、旧制高校を卒業した者は、ほぼ無試験で帝国大学へ進学することが出来た。事実上のエスカレーター進学である。

このため、花森安治は勤勉ではなかったが、昭和8年の春に旧制松江高校(島根大学)を卒業して、東京帝国大学(東京大学)の文学部美学美術史学科へと進学した。

昭和8年(1933年)、花森安治が22歳、大橋鎮子(大橋鎭子)が13歳の事である。

昭和7年5月には、五・一五事件によって犬養毅総理が暗殺され、昭和8年3月にはリットン調査団の報告により、満州国返還が決議され、日本は国際連盟から脱退し、国際社会から孤立しており、あんたんとした時代に突入していた。

そのような時代に東京帝国大学に進学した花森安治は、「編集員募集」の張り紙を見て帝国大学新聞へ入る。

帝国大学新聞は東京帝国大学の学生が編集する新聞だが、帝国大学新聞には広告や販売に専門の係が居り、商業新聞として一般にも販売されていたので、編集員には1年生は5円、2年生は10円、3年生は15円の給料が出た。

ただし、貧乏学生は一月35円で生活していたので、帝国大学新聞の給料だけでは生活するのは苦しいだろう。

花森安治は帝国大学新聞で、雲中小学校の同級・田宮虎彦と再会したほか、編集部員の扇谷正造・岡倉古志郎・杉浦明平と出会う。

松江高校時代の同級生・田所太郎は、花森安治と一緒に卒業できなかったので、1年後に旧制松江高校を卒業して東京帝国大学へ入り、帝国大学新聞の編集に加わる。

学生が左翼活動をするなか、花森安治は左翼活動には参加せず、田所太郎と共に帝国大学新聞の文芸欄を担当し、カットやレイアウトに精を出し、才能を開花していった。

余白と罫線を大胆につかった花森安治の見出しは、斬新で、扇谷正造を驚かせている。

さて、帝国大学新聞は現在のブラック企業やブラックバイトにあたり、ページを増やせ、増やせと言う一方で、編集員は増やさず、編集員を酷使していた。

こうした状況において、花森安治はボイコットやストライキを起こすのではなく、帝国大学新聞の経営陣と粘り強く交渉を行った。

そうした一方で、花森安治はバスタオルに真ん中に穴を開けて首を通し、腰紐でバスタオルを縛って、即席のローブを作り、大学を闊歩して皆を驚かせるということもあった。

この即席ローブが、花森安治が後に提唱する直線裁ち衣装の原点となる。

■花森安治が妻・山内ももよと出会う

昭和8年、花森安治は帝国大学へ入学した年の夏、松江(島根県松江市)へ帰省するために訪れた東京駅の切符入り場で、後に妻となる「山内ももよ」と出会う。

花森安治は兵庫県神戸市の出身だが、神戸には帰らず、旧制松江高校時代を過ごした島根県松江市へと帰省していた。(注釈:松江に帰省する理由は分からない。)

一方、妻・山内ももよは、島根県松江市天神町で江戸時代から続く老舗の呉服問屋「山内呉服屋」の末娘(四女)で、両親の反対を押し切って松江を飛び出して東京の実践女子専門学校へ通っており、松江へ帰省する為に東京駅を訪れていた。

日本におけるミスコンテストは明治時代から始まっており、妻・山内ももよはミス松江に選ばれた和風美人である。

数日後、島根県松江市天神町の実家「山内呉服屋」に戻った山内ももよは、お茶の先生にお菓子を届けに行くと、お茶の先生から「東大(東京帝都大学)の学生さんがいらしゃってるから、お茶を点ててくださる」と頼まれ、1人の学生を紹介された。

その東大生というのが花森安治で、山内ももよは東京駅で出会った花森安治と再会したのである。

花森安治は顔が怖かったので、山内ももよは花森安治を「変な人」と思ったが、何かひらめくものがあり、2人は交際に発展する。

しかし、妻・山内ももよはミス松江に選ばれた美形のうえ、実家は松江でも老舗の山内呉服屋である。

対する花森安治は鬼瓦のような顔のうえ、実家は没落していたので、家柄が釣り合うわけが無い。当然、妻・山内ももよの実家は結婚に反対した。

そこで、花森安治は妻・山内ももと出会った年の暮れ、旧制松江高校の教授・加藤恂二郎(加藤与次兵衛)の自宅を訪れた。

ドンドンと戸を叩く音がするので、教授・加藤恂二郎(加藤与次兵衛)が戸を開けると、旧制松江高校を卒業して帝都大学へ進学した花森安治が立っていた。

加藤恂二郎(加藤与次兵衛)が「どうした」と尋ねると、花森安治は頭をかきながら、「山内という呉服屋の娘さんと恋愛してるんですが、相手の親が結婚に反対しているんです」と打ち明けた。

翌朝、加藤恂二郎(加藤与次兵衛)が羽織袴を着て山内呉服店に乗り込むと、妻・山内ももよの両親は「加藤先生の頼みなら」と言い、花森安治と妻・山内ももよの結婚を認めたという。

そして、花森安治と妻・山内ももよは、昭和10年10月18日に東京・赤坂にある日枝神社で結婚式を挙げ、東京・牛込箪笥町の借家で新婚生活を開始した。

ただし、このときは結婚届は提出していない。婚姻届けを提出するのは、1年後の昭和11年12月26日で、入籍から4ヶ月後の昭和12年4月に長女・花森藍生(土井藍生)が生まれている。

さて、花森安治と妻・山内ももよは、教授・加藤恂二郎(加藤与次兵衛)のおかげで結婚する事ができたが、2人の結婚式の直後に妻・山内ももよの父親が死に、松江の山内家は、長男の山内以九士(やまのうち・いくじ)が継いだ。

長男の山内以九士は、昭和11年に設立されたプロ野球リーグ「日本職業野球連盟」でアメリカの野球のルールブックを翻訳して、日本の野球規則を編集し、「防御率」「自責点」などの用語を考案した人物である。

兄・山内以九士は戦後、公式記録員として活躍して「記録の神様」と呼ばれ、昭和60年(1985年)に公式記録員では初となる野球殿堂入りを果ている。

■花森安治が伊東胡蝶園(パピリオ)に入社

さて、花森安治は昭和10年10月18、大学3年生の時に妻・山内ももよと結婚式を挙げて新婚生活に入ったが、妻・山内ももよの父親の死後は、松江の実家からの仕送りはほとんど無くなってしまう。

しかも、花森安治は単位を落としてしまい、卒業できずに4年目の大学生活を送ることになる。(当時の東京帝国大学は3年制だった。)

花森安治はノートを取らない主義だったので、いつも友達のノートを頼りにしており、試験前日も友達の下宿へ行き、布団の上で腹ばいになってノートを読んでいた。

花森安治は夜中に眠くなったので、濃いコーヒーを飲んだのだが、眠ってしまい、気づくと朝になっていたので、単位を落とし、卒業が1年遅れたのである。

花森安治は帝国大学新聞から、わずかながら給料をもらっていたので、貧乏でも生活をしていけた。

しかし、妻・山内ももよのお腹が大きくなってきたので事情が変わってきたのか、昭和11年、大学4年目の花森安治は、化粧品メーカー「伊東胡蝶園(パピリオ)」に入社する。

さて、日本古来から使用されていた白粉(おしろい)には、有毒性の鉛が含まれているため、昭和5年に有鉛白粉の製造か禁止された。昭和9年には販売も禁止され、無鉛白粉の競争が激化していた。

そこで、化粧品メーカー「伊東胡蝶園(後のパピリオ)」は画家・佐野繁次郎を宣伝部に起用し、昭和10年に新ブランドの無鉛白粉「パピリオ白粉」を発売した。

佐野繁次郎は当時の人気画家で、天皇の料理番を務めた秋山徳蔵の著書「料理のコツ」の表紙も、画家・佐野繁次郎の作品である。

さて、花森安治は、帝国大学新聞の編集部員として画家に挿絵やイラストを依頼していた関係で、画家・佐野繁次郎と知り合っていたので、花森安治は昭和11年に、画家・佐野繁次郎の面接を受けた。

すると、花森安治は即採用され、翌日から伊東胡蝶園(パピリオ)の宣伝部で働き始める。

画家・佐野繁次郎が「いくら欲しい」と尋ねると、花森安治は65円欲しかったが、遠慮して55円と言ってしまったので、給料は55円になった。

花森安治は、伊東胡蝶園(パピリオ)に入社した年の昭和11年12月26日に婚姻届けを提出する。ちょうど、結婚式から1年後である。

そして、婚姻届を提出してから4ヶ月後の昭和12年4月に長女・花森藍生(土井藍生)が生まれた。

■花森安治の論文

花森安治は1年、留年して東京帝国大学を卒業する。その年の4月に長女・花森藍生(土井藍生)が生まれた。花森安治の卒業論文は、「衣装の美学的考察」という衣装についての論文であった。

花森安治は当初、漫画についての論文を書くつもりで、漫画家の岡本一平に取材をしにいったのだが、岡本一平が「まあ、飲め」と言って酒を勧めてくるので、結局、岡本一平とは酒を飲むだけで終わってしまい、なにも取材が出来なかったため、衣装についての論文を書くことにしたのである。

衣装についての論文は教授が「参考文献が無いからダメ」と言ったのだが、花森安治は何とか認めてもらい、卒業に漕ぎ着けた。

花森安治の論文は「参考文献が無い」という事が自慢だったらしい。

花森安治の生涯-大橋鎮子(大橋鎭子)と出会う」へ続く。

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