小寺政職が織田信長に属したあらすじとネタバレ

2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの播磨編「小寺政職が織田信長に属す」です。

このページは「軍師・黒田官兵衛-母里小兵衛と土器山の戦い」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」です。

■第2次信長包囲網
永禄11年(1568年)、織田信長は足利義昭を擁して上洛を果たし、足利義昭は織田信長の後ろ盾を得て15代将軍に就いて室町幕府を再建していた。

しかし、元亀2年(1571年)、織田信長の度重なる横暴に嫌気を挿した15代将軍・足利義昭は、毛利輝元・上杉謙信・武田信玄・本願寺顕如などの諸大名に檄を飛ばし、信長包囲網を敷き、織田信長と対立した(第2次織田信長包囲網)。

ところが、元亀4年(1573年)4月、徳川家康の領土へ侵攻していた甲斐(山梨県)の武田信玄が死亡したため、武田軍が撤退してしまう。

背後の憂いが消えた織田信長は西へと兵力を投入し、近江(滋賀県)の浅井長政と越前(福井県)の朝倉義景を撃破。こうして、信長包囲網はあえなく崩壊してしまう。

元亀4年(1573年)、織田信長は刃向かった15代将軍・足利義昭を京都から追放し、室町幕府は崩壊した。そして、織田信長は朝廷に働きかけ、年号を「天正」と改めたのである。

元亀4年(1573年)、このとき、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は28歳であった。

■毛利輝元か、織田信長か
東播磨で最大の勢力を誇る三木城の城主・別所長治や西播磨で勢力を誇る龍野城の城主・赤松政秀は、織田信長側に付いており、三木城の城主・別所長治は度々、小寺家の領土へと侵攻していた。

織田信長と毛利輝元の間には播磨が存在しているため、これまでは直接対決することはなかった。しかし、近畿まで勢力を伸ばした織田信長が中国の覇者・毛利輝元と激突するのは時間の問題あり、両者の間にある播磨が激戦区になるのは目に見えていた。

天正3年(1575年)5月、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が30歳のとき、甲斐(山梨県)の武田勝頼が長篠城(愛知県新城市)を奪い返すために1万5000の大軍を率いて進軍する。

しかし、武田勝頼は、長篠城の援軍に駆けつけた織田信長・徳川家康の連合軍に大敗し壊滅的なダメージを受けて撤退した(長篠の戦い)。

織田信長は「長篠の戦い」で鉄砲を主力とした新戦法「鉄砲三段打ち」を使用し、劇的な勝利を果たしたと言われている。

このようななか、御着城の城主・小寺政職は重臣を集め、「織田信長に付くべきか。毛利輝元に付くべきか」と尋ねた。すると、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が織田信長に属すべき理由を諸将に説いた。

小寺官兵衛の姫路城には、父・黒田職隆が建てた百間長屋があり、父・黒田職隆は百間長屋で、旅人や博徒など、ありとあらゆる人の面倒を見ていたため、姫路城には各地の情報が集まってきた。

このため、小寺官兵衛は百件長屋で得た情報を元に、小寺家の重臣に向かって「今川義元は滅び、武田信玄も死んだ。関東の北条や四国の三好も衰えた。徳川家康は良将といえど、国が小さい。上杉謙信は遠方にあり、上洛は難しい。天下を取るのは安岐の毛利輝元か、美濃の織田信長でしょう」と告げた。

さらに、小寺官兵衛は「毛利家には吉川元治・小早川隆景という優秀な武将が居るが、毛利輝元は天下人の器ではない。毛利輝元は安岐に引きこもり、自身が戦地に赴くことは無い。これまで傘下に入っていた者も毛利に背を向けるだろう」と指摘した。

そして、小寺官兵衛は「一方、織田信長は桶狭間で今川義元を破り、足利義昭を擁して上洛を果たした。武田勝頼との合戦にも勝ち、関東に敵対する勢力も無い。近畿を制圧して天下の要所に住居して、その勢いは天下に及ぶ。織田信長に属するべきだ」と主張した。

小寺官兵衛は百件長屋に集まってきた情報を元に、理路整然と天下の時勢を説いたため、小寺家の重臣は小寺官兵衛に反論することが出来ず、主君・小寺政職も織田信長に付くことを決めたのである。

■織田信長への使者
御着城の城主・小寺政職は小寺官兵衛に説得され、織田信長に従属することを決めるが、既に播磨では赤松政秀と別所長治が織田信長に従属しており、小寺政職は後発組になってしまう。

さらに、小寺政職は赤松政秀の娘を拉致しようとして、15大将軍・足利義昭と織田信長に楯突き、敵対した過去があるため、家臣一同は織田信長への使者を嫌がった。

そこで、小寺官兵衛が「しからば、私が参ろう」と名乗り出た。小寺政職はこれに喜び、小寺官兵衛に織田信長との交渉を任せた。

天正3年(1575年)7月、小寺官兵衛は旅人に扮して岐阜へ入ると、織田信長の家臣・木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に会い、織田信長への仲介を依頼した。

そして、小寺官兵衛は織田信長に面会すると、「私の姫路城は播磨の各地へ伸びる通路の拠点で、中国侵略の要所です。明石城の明石左近や高砂城の梶原平三兵衛は、近畿に大将が居ないので、毛利に属しているだけです。志方城の櫛橋左京進は私の縁者で、既に話は付いています」と報告した。

さらに、黒田官兵衛は「播磨には、小寺家と三木城の別所家が勢力を誇っております。三木城の別所長治(別名は別所小三郎)は二心無き毛利派なので、別所長治を退治してください。その間に、私は佐用城の福原主善と上月城の上月十郎を攻め落とします。播磨は近畿と中国地方の間にあり、播磨を手に入れれば、中国征伐の善き架け橋になるでしょう」と述べた。

これを聞いた織田信長は「その方が申すことは、私の考えと相違がない。播磨攻略については木下藤吉郎を派遣するので、木下藤吉郎と相談するように。中国を討つときは、必ず汝に先手を任せよう。汝は姫路へ帰り、内々に準備を始めよ」と言い、自らが愛用していた名刀「圧切(へしきり)」を小寺官兵衛に与えたのである。

こうして、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は、織田信長と羽柴藤吉郎(後の豊臣秀吉)に認められることになる。このとき、小寺官兵衛は既に30歳であった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの播磨編「小寺官兵衛の英賀合戦のあらすじとネタバレ」へ続く。