軍師・黒田官兵衛の英賀合戦

2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの播磨編「軍師・黒田官兵衛の英賀合戦」です。

このページは「小寺政職が織田信長に属したあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじの目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」です。

■毛利来襲(英賀合戦)
天正4年(1576年)2月、織田信長に京都終われた15代将軍・足利義昭は、中国の覇者・毛利輝元を頼り、備後の鞆(広島県福山市鞆)へ入った。このとき、黒田官兵衛は31歳であった。

第2次信長包囲網は、武田信玄の死亡にって崩壊したが、15代将軍・足利義昭は再び各地の大名に檄を飛ばし、第3次信長包囲網を形成していく。

(注釈:15代将軍・足利義昭が織田信長に追放され、室町幕府は終わったことになっているが、足利義昭は依然として地方の大名に権威を保持していた)

このころ、摂津(大阪府)の石山本願寺が織田信長への対立を深めており、天正4年(1576年)4月、ついに織田信長が石山本願寺討伐に乗り出した。

これに対して中国の毛利輝元は、織田信長に対抗するため、摂津(大阪府)の石山本願寺へ物資の支援を開始する。

織田信長が石山本願寺を海上も完全に包囲したため、石山本願寺への支援は困難を極めたが、天正4年(1576年)7月、毛利輝元の水軍は織田信長の水軍を撃破し、石山本願寺への支援を成功させた。

続いて毛利輝元は家臣・浦宗勝に、織田勢力の姫路城への攻撃を命じた。浦宗勝は、小早川隆景の水軍を代表する名将で、毛利水軍を支えた人物である。

天正5年(1577年)5月、毛利軍の浦宗勝が5000人の兵を引き連れて、姫路城の南西7kmにある英賀村(あが村=兵庫県姫路市飾磨区英賀)に上陸する。このとき、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は32歳であった。

英賀城の城主・三木通秋は、「青山の合戦」の時に小寺官兵衛(黒田官兵衛)の窮地を救ったが、今は毛利側に付いているので、協力を要請できない。

御着城の城主・小寺政職は毛利軍の襲来に驚いて腰を抜かすが、小寺官兵衛は冷静に「敵は船が揺れてで疲れているはず。陣を整える前に奇襲攻撃をかけるべきです」と進言した。

小寺政職が出陣を許可すると、小寺官兵衛は、農民を集めて旗を持たせて広報の茂みに伏せ、手勢500人を率いて英賀村に到着した浦宗勝の軍に奇襲攻撃をかけた(英賀合戦)。

まだ布陣の整っていない毛利軍は、黒田官兵衛の襲撃により、混乱を起したが、毛利軍の浦宗勝は直ぐに陣を立て直して黒田軍を返り討ちにしようとする。

そのとき、黒田軍の後方の茂みに隠れていた農民が、かけ声をあげて旗を掲げた。

まさか、御着城からの援軍か。動揺した毛利軍は総崩れとなった。名将の浦宗勝といえど、1度崩れた軍勢を立て直すことは難しく、敗走を余儀なくされた。

黒田官兵衛は逃げる毛利軍を追撃し、ことごとく討ち取った。毛利軍の浦宗勝は壊滅的な被害を受け、安芸(広島県)へと逃げ帰り、黒田官兵衛は大勝利を納めた。

その後、摂津の有岡城(兵庫県伊丹市)の城主・荒木村重が、黒田官兵衛の活躍を織田信長に報告する。黒田官兵衛の活躍に喜んだ織田信長は黒田官兵衛に感謝状を贈り、黒田官兵衛は荒木村重に感謝した。

有岡城(兵庫県伊丹市)の城主・荒木村重は織田信長の領土の最西端で、播磨方面の武将を取り纏める役割を担当しており、黒田官兵衛は荒木村重との親交を深めていくことになる。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの播磨編「小寺官兵衛が黒田長政を人質に出す」へ続く。