荒木村重が小寺官兵衛(黒田官兵衛)を幽閉したネタバレ

2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの播磨編「荒木村重が小寺官兵衛(黒田官兵衛)を幽閉したあらすじとネタバレ」です。

このページは「小寺官兵衛と宇喜多直家の寝返りのネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■荒木村重の寝返り
天正6年(1578年)10月、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が32歳のとき、織田信長に属して摂津1国(大阪府北部)を治めていた有岡城の城主・荒木村重が、突如として織田信長に反旗を翻して毛利側へと寝返った。

荒木村重は、摂津の豪族・荒木義村の嫡子として生まれる。当初は池田勝正に仕えていたが、織田信長に気に入られて、織田信長の家臣となり、近畿での戦で功績を挙げ、摂津1国を任される大名にまで成り上がった。

荒木村重が織田信長に拝謁したとき、織田信長は饅頭を剣で突き刺し、荒木村重に「食べてみよ」と命じた。家臣一同が青ざめるなか、荒木村重は平然と剣に突き刺さった饅頭を1口で飲み込んだため、織田信長は荒木村重を気に入り、摂津1国を任せたという。

荒木村重は織田側の軍勢として、石山本願寺攻めでは先鋒隊を務め、中国征伐では副大将を務めるほど、織田信長から信頼を得ていた。

さらに、摂津は織田信長勢力の最西端にあったため、播磨方面の担当窓口のような役割をしており、荒木村重は織田信長の中国征伐で重要な役割を担っていた。

一方、上杉謙信の死によって第3次信長包囲網は弱まったものの、15代将軍・足利義昭は依然として各地の大名に調略を続けたいた。

このようななか、有岡城の城主・荒木村重は、15代将軍・足利義昭の調略を受け、突如として織田信長に反旗を翻したのである。

荒木村重は摂津で大きな影響力を持っていたため、荒木村重が織田信長に反旗を翻すと、周辺の豪族も荒木村重に呼応して織田信長に反旗を翻し、摂津1国(大阪府)が毛利側に寝返った。

これに困るのが、三木城を包囲していた羽柴秀吉である。摂津が離反すると、岐阜から播磨へと延びる戦線が遮断されるうえ、摂津は三木城と隣接してるため、籠城している三木城に食糧補給路が出来てしまうのだ。

さすがの織田信長も荒木村重の離叛に驚き、「母親を人質に差し出せば、離叛は無かったことにする」という条件を出し、明智光秀や蜂須賀正勝らを説得に当たらせたが、荒木村重の意思は硬かった。

■黒田官兵衛の幽閉
そのようななか、小寺官兵衛(黒田官兵衛)の元に、御着城の城主・小寺政職が有岡城の城主・荒木村重に呼応して、織田信長に反旗を翻すという噂が伝わってのである。

これに驚いた小寺官兵衛は、御着城を訪れて主君の小寺政職を必死に説得したが、小寺政職に応じなかった。

そのとき、小寺家の家老が小寺官兵衛を暗殺するという噂が聞こえたため、小寺官兵衛は密かに姫路城へと帰り、父・黒田職隆に相談した。

父・黒田職隆が家老を集めると、家老は「官兵衛殿を御着城へ返しては命が危ない。ここは姫路城に引きこもり、使者を遣わして難を逃れるべきです。いよいよ敵が攻めてくるのであれば、合戦し、寄せ手を討ち果たし、御着城へ攻め入りましょう」と意見した。

しかし、小寺官兵衛は家老に「この城に立て籠もれば、小寺政職に対して謀反人となる。小寺家と合戦をすれば、不義になる。小寺政職に疑われて暗殺されたとしても、それは私の不義にはならない。武門の家に生まれたからには、義を重んじ、命は惜しまない」と反対した。

すると、父・黒田職隆は「織田信長を主と仰ぎ、小寺政職を旗頭とした以上は、織田信長に二心を抱かず、小寺政職に背かない事が当然の義理である。いつものように御着城へ行き、小寺家の家老をあしらうべし。もし、難を逃れられない場合は、切腹するべし」と小寺官兵衛の意見に賛成した。

こうして、小寺官兵衛はいつもの様にわずかな供を従え、再び御着城へ入った。

御着城では、黒田官兵衛が姫路城に立て籠もるという噂が流れていたため、御着の民は不安がっていたが、いつもと変らない小寺官兵衛を見て、御着の民は安心した。

さて、御着城へ入った小寺官兵衛は、再び主君の小寺政職を説得したが、織田信長に反旗を翻すという評議は変らなかった。

小寺政職は小寺官兵衛を殺したかったが、小寺官兵衛を殺せば、父・黒田職隆が姫路城に立て籠もることは目に見えていた。父・黒田職隆は強敵なので、小寺政職は小寺官兵衛を殺せなかったのである。

そこで、小寺政職は小寺官兵衛に「私が織田信長に背いたのは、荒木村重の一味だからである。荒木村重が織田信長に属するのであれば、私も織田信長に属そう。織田信長に属した方が良いと言うのなら、汝が荒木を説得してまいれ」と命じた。

黒田官兵衛は織田信長や羽柴秀吉と連絡をとるときに有岡城(兵庫県伊丹市)の荒木村重を中継していた関係で、黒田官兵衛と荒木村重と旧知の仲であった。

荒木村重の考えは分からなかったが、小寺政職を織田信長に属させるためには荒木村重を説得する以外に方法は無いため、小寺官兵衛は荒木村重を説得することにした。

天正6年(1578年)10月下旬、小寺官兵衛は荒木村重が籠城する有岡城を訪れたが、荒木村重は屈強な兵士を待機させており、小寺官兵衛を生け捕りにして、牢屋に閉じ込めた。

小寺政職は荒木村重に「小寺官兵衛を殺して欲しい」と依頼していたが、荒木村重は殺害までは出来ず、生け捕りにして牢屋に閉じ込めた。これは小寺官兵衛(黒田官兵衛)が33歳の事であった。

実話「黒田官兵衛(黒田如水)の生涯」のあらすじとネタバレ播磨編「黒田職隆の決断-竹中半兵衛の機転」へ続く。