後藤又兵衛(後藤基次)の生涯

2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの播磨編「後藤又兵衛(後藤基次)の生涯」です。

■後藤又兵衛(後藤基次)のwiki
本名を「後藤基次」と言う。幼名が「後藤又兵衛」で、後に「後藤讃岐」を名乗った。

後藤又兵衛は黒田家の家臣を代表する「黒田24騎」の1人で、黒田24騎の中でも精鋭を選んだ「黒田八虎」の1人である。後藤又兵衛は黒田家を代表する先手だったが、黒田長政の嫌がらせにより、不運な晩年を過ごした。

徳川家康は大坂冬の陣のとき、「大阪方の浪人衆の中で、武者らしいのは、後藤又兵衛と御宿勘兵衛だけだ」と評価したという。

■後藤又兵衛の生涯
後藤家は播磨守護大名・赤松家の一族で、東播磨にある三木城(兵庫県三木市)の別所氏に仕え、代々、春日城の城主を務めた。後藤又兵衛の父・後藤新左衛門は、春日城の城主・後藤基信の弟で、別所長治の家臣だった。

さて、天下布武を掲げた織田信長が台頭し、織田信長の家臣・木下藤吉郎(豊臣秀吉)の播磨(兵庫県)侵攻を開始した。姫路城主・黒田勘兵衛は、主の御着城主・小寺政職を説得し、織田信長に下った。

しかし、三木城(兵庫県三木市)の別所長治は、織田信長と対立したため、後藤家は木下藤吉郎(豊臣秀吉)の侵略を受けて滅んだ。

その後、父・後藤新左衛門は御着城の城主・小寺政職に仕えたが、病死する。黒田官兵衛は名門・後藤家が滅びるのを憂い、後藤新左衛門の幼い子供・後藤又兵衛を養育した。

後藤又兵衛は、黒田勘兵衛の嫡男・黒田長政と兄弟同様に育てられた。後藤又兵衛と黒田長政は仲が良かったらしく、黒田長政と後藤又兵衛は兄弟という伝承も残っている。

こうして、後藤又兵衛と後藤又兵衛の伯父・藤岡九兵衛の2人は、姫路城主・黒田官兵衛に仕えた。

■後藤又兵衛の追放
このようななか、織田信長に属していた有岡城(兵庫県伊丹市)の城主・荒木村重が突如として織田信長に反旗を翻した。

さらに、毛利の調略を受けた御着上の城主・小寺政職も有岡城の城主・荒木村重に呼応する形で、織田信長に反旗を翻した。

このとき、後藤又兵衛の伯父・藤岡九兵衛が黒田官兵衛を裏切り、御着上の城主・小寺政職に味方して織田信長に反旗を翻した。

黒田官兵衛は主の小寺政職を諫めると、小寺政職は「ならば、荒木村重を説得してまいれ」というので、黒田勘兵衛は荒木村重を説得するために有岡城(兵庫県伊丹市)へ入ったが、そのまま荒木村重に監禁されてしまう。

その後、有岡城は織田信長の軍勢に包囲され、毛利輝元からの援軍が得られない荒木村重は、有岡城を捨てて中国地方の毛利輝元を頼って逃げ、小寺政職も御着城を捨てて毛利輝元を頼って中国地方へと逃げた。

有岡城が織田信長の軍勢に攻め落とされ、黒田官兵衛が救出されると、黒田官兵衛は裏切った藤岡九兵衛を許さず、一族同罪として後藤又兵衛を黒田家から追放した。

■後藤又兵衛が黒田家に復帰
黒田家を追放された後藤又兵衛は、越前(福井県)で仙石秀久に仕え、四国征伐などに従軍したが、目立った活躍はなかったようで、活躍は聞かれない。

その後、仙石秀久は淡路を拝領し、九州征伐のとき、四国勢を率いて豊後(大分県)へ上陸した。しかし、仙石秀久は功を焦って「戸次川の戦い」で島津軍に惨敗し、淡路へと逃げ帰った。

主の仙石秀久が淡路へと逃げ帰ったが、後藤又兵衛は九州に残っていたらしく、黒田勘兵衛の嫡男・黒田長政が九州に残っていた後藤又兵衛を呼び戻したので、後藤又兵衛は黒田家に仕えることになった。

しかし、黒田官兵衛が嫡男・黒田長政に「反逆人の一族なので、近くに召し抱えてはいけない」と命じたので、黒田長政は家臣・栗山善助に後藤又兵衛を預けた。

こうして、後藤又兵衛は知行100石で、黒田家の家老・栗山善助の家臣(与力)となった。

■後藤又兵衛と豊前時代
さて、豊臣秀吉の軍師として活躍してきた黒田官兵衛は、九州征伐の後、豊前国6郡を拝領した。

ところで、豊前国の地侍で、城井谷城の城主・城井鎮房(宇都宮鎮房)は九州征伐の恩賞として、豊臣秀吉から今治12万石への加増転封を受けていた。

しかし、城井鎮房(宇都宮鎮房)は「城井谷は源頼朝から拝領した先祖伝来の土地である。領土の大小ではない」と言い、豊臣秀吉に朱印状を突き返したので、怒った豊臣秀吉は加増転封を取り消した。

既に城井谷城を含む豊前国6郡は黒田勘兵衛に与えられており、行き場を失った城主・城井鎮房(宇都宮鎮房)は、豊前国で一揆を起こす。

このころ、肥後(熊本県)の新領主となった佐々成政が太閤検地を断行したため、肥後(熊本県)で一揆が起きており、黒田官兵衛は肥後一揆鎮圧のために兵を率いて肥後へと向かっていた(肥後国人一揆)。

留守として豊前に残っていた黒田長政は、黒田官兵衛に報告せず、兵を率いて城井鎮房(宇都宮鎮房)を成敗しようとした。

城井谷城は天然の要害だったので、家臣の後藤又兵衛や吉田六郎太夫などは、「聞きしに勝る要害ですな。この少数で居城・城井谷城を落とすのは無理でしょう。一度、兵を引いて策謀を巡らせましょう」と進言したが、黒田長政は聞き入れず、城井谷城を攻めて、城井鎮房(宇都宮鎮房)に大敗した。

(注釈:城井鎮房の生涯は「城井鎮房(きい・しげふさ)の生涯」をご覧ください。)

■後藤又兵衛の出世
その後、後藤又兵衛は黒田家で頭角を現し、黒田家を代表する先手となり、朝鮮出兵では後藤又兵衛・母里太兵衛・黒田一成が毎日、交代で先手を務め、朝鮮の方々の戦いで功績を挙げた。

ところで、朝鮮出兵のとき、朝鮮半島には「もくそ城(晋州城)」という堅城があった。

日本軍の加藤光泰・細川忠興・木村重茲・長谷川秀一ら7将が2万の軍勢でもくそ城(晋州城)を攻めたが、金時敏(キム・シミン)が3800の兵で守る「もくそ城(晋州城)」に大敗してしまう(第1次・晋州城の戦い)。

後藤又兵衛は「第2次・もくそ城(晋州城)の戦い」で、亀甲車を考案して、加藤清正と共に先手を務め、難攻不落と言われた「もくそ城(晋州城)」の城壁を破壊して、日本軍の勝利に貢献した。

なお、亀甲車は、石や火矢を防ぐために屋根を付けた城攻め用の車で、黒田勘兵衛の発案とも、加藤清正の家臣・飯田直景が発案したとも伝わる。

朝鮮出兵で活躍した後藤又兵衛は、あくまでも栗山善助の家臣であったが、黒田家の家老と同等に扱われるようになる。

関ヶ原の合戦のとき、後藤又兵衛は黒田三左右衛門などと共に「合渡川の戦い」で先手を務め功名を挙げた。

また、後藤又兵衛の嫡子・後藤左門は、関ヶ原の合戦の隙に九州を統一しようとした黒田如水(黒田勘兵衛)に従って、豊後侵攻で手柄を立てた。

■後藤又兵衛が黒田家を出奔
関ヶ原の合戦の恩賞として、黒田長政が筑前を拝領すると、後藤又兵衛は黒田長政から1万6000石を賜り、大隅城の城主となった(注釈:1万石から大名格となる)。

小隅城の城主となった後藤又兵衛は、家臣の身でありながら、他国の大名と書状を頻繁に取り交わすようになった。これを黒田長政に咎められたため、後藤又兵衛は誓紙を差し入れた。

しかし、その後も後藤又兵衛は諸大名と書状を交わしていたのか、後藤又兵衛は黒田家と犬猿の仲にある豊前国の細川忠興と通じているという噂が流れたため、黒田長政の逆鱗に触れ、後藤又兵衛は慶長11年(1606年)に黒田家を出た。

(注釈:後藤又兵衛が黒田長政の関係が悪化した理由は諸説あり、朝鮮出兵の時の遺恨が原因という説が有名だが、後藤又兵衛は1万6000石まで出世しているので、後藤又兵衛と黒田長政の関係が悪化した理由は、黒田家と犬猿の仲にある細川忠興が関係していると考えられる。)

■後藤又兵衛の出奔後
国替えの時は年貢を徴収しない習慣になっていたが、筑前を拝領した黒田長政は、豊前で年貢を徴収してから筑前へと移った。

このため、豊前に入った細川忠興は年貢を徴収できず、黒田家に年貢の返還を求めたが、黒田長政は無視。黒田長政と細川忠興は関係が悪化し、犬猿の仲となっていた。

(注釈:黒田長政と細川忠興が犬猿の仲になった経緯は「黒田長政と細川忠興の対立の理由-年貢持ち逃げ事件」をご覧ください。)

さて、筑前の黒田家を出奔した後藤又兵衛が、黒田家と対立していた豊前の細川忠興を頼り、細川忠興が後藤又兵衛を召し抱えようとしたので、黒田長政が細川忠興に猛抗議し、細川忠興と黒田長政は一触即発の状態に陥る。

この騒動は、江戸幕府が仲裁に乗り出す事態に発展したため、後藤又兵衛は細川忠興の元を離れて浪人となった。

諸大名は誉れ高き後藤又兵衛を召し抱えようとしたが、黒田長政は「奉公構(ほうこうかまえ)」という出奔した武将の雇用を禁じる制度を利用したので、諸大名は後藤又兵衛を召し抱えることが出来なかった。

ところが、播磨・姫路城の城主・池田輝政は「奉公構(ほうこうかまえ)」を無視して後藤又兵衛を召し抱え、後藤又兵衛は故郷の姫路で住むことになる。

黒田長政は再三に渡り、後藤又兵衛の扶持放し(解雇・追放)を求めたが、池田輝政が要求に応じず、黒田長政と池田輝政の関係は悪化し、音信不通となった。

慶長16年(1611年)、後水尾天皇の即位のため、徳川家康が上洛。徳川家康は大阪城の豊臣秀頼に会見を求め、二条城会見を実現させた。

慶長16年(1611年)、黒田長政は、上洛した徳川家康に後藤又兵衛の追放を訴え、受理され、姫路城の城主・池田輝政は後藤又兵衛を扶持放し(解雇)た。

しかし、その後も後藤又兵衛は播磨に住んでいる事が判明したので、刺客30人を差し向けて後藤又兵衛を殺そうしたが、後藤又兵衛の暗殺に失敗する。後藤又兵衛は逃げ隠れすること無く、平然と過ごしていたという。

このため、黒田長政は、池田輝政の子・松平武蔵守(池田利隆)に頼み込み、後藤又兵衛を播磨から追放させた。

その後、後藤又兵衛がどこ行ったかは諸説があるが、黒田長政の怨念は凄まじく、後藤又兵衛の再仕官をことごとく邪魔して、刺客を送って命を狙い続けたという。

■後藤又兵衛と大坂冬の陣
後藤又兵衛(後藤基次)が牢人をしているときに、徳川家康が豊臣討伐を発動した。豊臣秀頼は豊臣恩顧の大名に結集を呼びかけたが、それに応じる大名はいなかったので、関ヶ原の合戦の影響で全国に溢れていた牢人に大阪城結集を呼びかけた。

後藤又兵衛(後藤基次)も、豊臣家の家老・大野治長の要請を受け、大阪城へと入った。

■後藤又兵衛(後藤基次)が大阪城に入る逸話
黒田長政の怨念は凄まじく、後藤又兵衛(後藤基次)に追っ手を差し向け、後藤又兵衛(後藤基次)を執拗に探した。

後藤又兵衛(後藤基次)が大阪で牢人をしていたとき、黒田長政の手下30人が後藤又兵衛(後藤基次)を捕らえようとしたが、後藤又兵衛(後藤基次)を捕らえることは難しかった。

そこで、黒田長政の手下30人は、後藤又兵衛(後藤基次)の幼い息子を誘拐しようとした。

それを聞いた豊臣秀頼が「大阪に居る者は皆、我が家臣である」と言い、黒田長政の手下30人を捕らえて磔にした。

後藤又兵衛(後藤基次)はこれを恩義に思っていたので、大坂冬の陣が勃発すると、豊臣秀頼の恩に報いるため、大阪城に入った。

■後藤又兵衛(後藤基次)が大阪城に入る逸話2
後藤又兵衛(後藤基次)は、黒田長政に奉公構にされた後、大和(奈良県)に住んでいたことがある。

このとき、後藤又兵衛(後藤基次)は豊臣家の大野治房から恩(支援)を受けたていたので、大坂冬の陣が起こると、何も聞かずに大阪城へと入り、大野治房と共に豊臣家の為に謀略を巡らせた。

後藤又兵衛(後藤基次)は、大野治房の姪を妻に迎え、大野治房に尽くした。

■後藤又兵衛が大阪牢人5人衆になる逸話
大坂冬の陣のとき、牢人のうち、元大名だった長宗我部盛親・毛利勝永・真田幸村(真田信繁)の3人を「大阪牢人3人衆」と称し、牢人のうち、軍議に参加できたのは大阪牢人3人衆だけで、後藤又兵衛(後藤基次)のような小身は軍議に参加できなかった。

さて、大阪城は川や湿地帯を利用した天然の要害だったが、南側は空堀があるだけで防御が薄かった。そして、大阪城の南方には平野が広がっており、江戸幕府軍の主力部隊が大阪城の南方に布陣する目に見えていた。

そこで、牢人・後藤又兵衛(後藤基次)は、大阪城の東南にある高台に木材を搬入し、馬出「後藤丸」を築く準備を始めた。

馬出というのは、城の出入り口を壁や土塁で被い、敵を迎撃するための防御施設で、全国的に普及していた。真田幸村で有名な「真田丸」も、馬出を発展させたものである。

ところが、牢人・真田幸村(真田信繁)も後藤又兵衛(後藤基次)と同じ事を考えており、牢人・真田幸村(真田信繁)は後藤又兵衛(後藤基次)が搬入していた木材を撤去し、「真田丸」を築き始めた。

これに激怒したのが、後藤丸を築こうとしていた後藤又兵衛(後藤基次)である。

牢人・薄田兼相が後藤又兵衛(後藤基次)を宥めたが、後藤又兵衛(後藤基次)は手勢を率いて真田幸村(真田信繁)を追い出そうとした。

そこで、困った豊臣家の大野治長らは、キリシタン牢人の明石全登(明石掃部)に仲裁を頼んだ。

(注釈:キリシタン牢人の明石全登については、「キリシタン牢人・明石全登(明石掃部)の生涯」をご覧ください)

藤又兵衛(後藤基次)は明石全登(明石掃部)の仲裁を受け、真田幸村(真田信繁)に場所を場所を譲る代わりに、軍議に参加させるように求めた。

豊臣秀頼は、これを認めたので、藤又兵衛(後藤基次)と明石全登(明石掃部)の2人が大阪牢人3人衆に加わり、「大阪牢人5人衆」と呼ばれるようになった。

■藤又兵衛(後藤基次)と真田丸の逸話
江戸幕府軍は大阪城の南側から攻めてくるのは明らかだったので、真田幸村(真田信繁)と藤又兵衛(後藤基次)は功を上げようと思い、大阪城南東の防御に志願して、激しく争った。

このとき、真田幸村(真田信繁)の兄・真田信之が徳川方に属していたので、真田幸村(真田信繁)が大阪城南東の防御を執拗に志願するのは、徳川家康に内通しており、徳川方を大阪城内に引き入れるためではないか、という噂が流れた。

この噂を知った藤又兵衛(後藤基次)は、真田幸村(真田信繁)に手柄を立てさせるため、大阪城東南の守りを真田幸村(真田信繁)に譲り、自らは遊撃軍に転じた。

■後藤又兵衛(後藤基次)と大坂冬の陣
後藤又兵衛は、真田幸村(真田信繁)の提案した迎撃作戦に賛成したとされるが、迎撃作戦に反対したという逸話も残っている。

後藤又兵衛については、正反対の逸話があるので、どのような方針だったかは分からないが、豊臣家の大野治長を補佐していたようである。

戦いにおいては、後藤又兵衛は遊撃軍として活動し、大阪城の東側場外で行われた「鴫野・今福の戦い」では、木村重成と共に援軍として向かい、江戸幕府軍の佐竹義宣を退けた。

しかし、佐竹義宣が上杉景勝に救援を求め、上杉景勝に側面から攻撃されたので、後藤又兵衛は大阪城内に撤退した。このとき、後藤又兵衛は鉄砲で撃たれて負傷する。

その後、豊臣家を主導する大野治房は、大阪城西側の場外での防衛を諦め、兵を撤収しようとしたが、場外に布陣していた豊臣衆の大野治房や塙団右衛門(塙直之)は船場が健在だったため、命令に応じなかった。

そこで、大野治房は後藤又兵衛(後藤基次)と相談し、後藤又兵衛(後藤基次)が船場に火を放ち、強制的に豊臣衆の大野治房や塙団右衛門(塙直之)を城内へ撤退させた。

(このときの逸話は、「大坂冬の陣-後藤又兵衛と花房助兵衛(花房職秀)の戦い」をご覧ください。)

また、真田丸の戦いにおいては、大阪城の南方に布陣した江戸幕府軍の動きを見て、巧攻撃が近いことを察知し、大阪城南側の防御を固め、真田丸の戦いでの勝利に貢献した。

■後藤又兵衛の最期-道明寺の戦い
大阪冬の陣は和睦が成立したが、行き場の無い牢人は大阪城に居座り、戦の準備を再開した。

徳川家康は豊臣秀頼に「疑いを晴らすまで、大和の郡山城へと移ってください。大阪城を修復してお返しします」と提案したが、豊臣秀頼は応じなかったので、大阪冬の陣の和睦から、わずか5ヶ月後に大坂夏の陣が勃発する。

大阪城は大阪冬の陣の和睦により、「二の丸」「三の丸」が破壊され、内堀と外堀が埋め立てれて丸裸となっており、籠城は不可能だった。

そこで、後藤又兵衛(後藤基次)が大和方面で江戸幕府軍を迎え撃つ作戦を主張し、真田幸村・木村重成・薄田兼相らも賛同したので、豊臣軍は大和(奈良県)方面で江戸幕府軍を迎え撃つことになった。

大和方面に向かう豊臣軍は、後藤又兵衛(後藤基次)・薄田兼相・キリシタン明石全登らが6400が先陣を務め、真田幸村・毛利勝永・大谷吉治ら1万2000が後陣を務める。

慶長20年(1615年)5月5日、豊臣軍は平野で宿営して軍議を開き、5月6日深夜に道明寺に集まり、江戸幕府軍が兵を展開する前に国分村の狭隘地で江戸幕府軍を迎え撃つ作戦が決定した。

ところで、後藤又兵衛が平野で宿営しているとき、京都・相国寺の僧・揚西堂(ようさいどう)が後藤又兵衛(後藤基次)を尋ねてきたという。

揚西堂は徳川家康の使者で、「関東に味方すれば、播磨(兵庫県)一国を賜るべし」と寝返りを持ちかけた。

しかし、後藤又兵衛(後藤基次)は「ありがたい申し出ですが、徳川に味方する事は思いもよりません。大阪に勢いがあり、徳川が危ないのなら、徳川に味方することもあるでしょう。しかし、今は大阪が傾いていて豊臣秀頼が滅亡しようとしているときです。これを見て二心を抱くようであれば、弓矢を取るもの道ではありません」と答えた。

そして、後藤又兵衛は「私さえ生きていれば、1日で落ちる大阪城が10日は持ちこたえるでしょう。反対に100日持つ大阪城でも、私が死んだと伝われば、1日で落ちるでしょう。私が早々に討ち死にすることが、徳川家への恩に報いる事だと思います」と揚西堂に告げた(常山紀談)。

さて、慶長20年(1615年)5月6日午前0時、後藤又兵衛(後藤基次)は手勢2800を率いて平野を出発し、国分村の東にある集合場所の道明寺に入るが、豊臣軍は誰1人として道明寺に来ていなかった。

このとき、濃い霧が発生しており、薄田兼相や真田幸村らは霧の影響で遅刻していた。薄田兼相や真田幸村ら豊臣軍が道明寺へ来るのは、慶長20年(1615年)5月6日正午前のことである。

後藤又兵衛(後藤基次)は豊臣軍が来るのを待っていたが、偵察が帰ってきて、既に江戸幕府軍の先鋒・水野勝成が国分村に兵を展開し、攻撃態勢をとっている事が判明した。

江戸幕府軍に後れを取ったと思った後藤又兵衛(後藤基次)は、東へ進んで石川を渡り、国分村の近くにある小高い山「小松山」に布陣した。

慶長20年(1615年)5月6日午前4時、それを見た江戸幕府軍の先鋒・水野勝成は、小松山の後藤又兵衛(後藤基次)を攻めた。

その後、江戸幕府軍の後続部隊が到着し、江戸幕府軍の伊達正宗・本多忠政・松平忠明が小松山攻めに加わり、小松山の後藤又兵衛(後藤基次)を三方から包囲して激しく鉄砲を撃った。

後藤又兵衛(後藤基次)は激しく防ぎ戦ったが、多勢に無勢である。やがて、伊達正宗の先鋒・片倉小十郎(片倉重綱)は一斉射撃をかけ、小松山を登り始めた。松平忠明の手勢も小松山へと迫った。

すると、後藤又兵衛(後藤基次)は小松山を捨てて平地へ下り、江戸幕府軍に決戦を挑み、江戸幕府軍の一陣、二陣を撃破したが、多勢に無勢で江戸幕府軍を崩すことは出来ず、後藤又兵衛(後藤基次)は側面から射撃を受け、撤退を余儀なくされた。

後藤又兵衛(後藤基次)の家臣は、次々に江戸幕府軍に取り囲まれて死んでいく。

後藤又兵衛(後藤基次)は兵を収めるため、単騎で戦場へと戻ったとき、伊達正宗の先鋒・片倉小十郎(片倉重綱)の鉄砲を受けて戦場に倒れた。

後藤又兵衛(後藤基次)は腰の上を打ち抜かれて動けなくなり、「無念、この上ない」と悔しがり、槍を振り回して敵がくるのを待っていた。

そこへ、従兵の金方平左衛門がやってきた。金方平左衛門は肩を貸して後藤又兵衛(後藤基次)連れて行こうとしたが、後藤又兵衛(後藤基次)は大男だったうえ、大指物を指して重かった。

しかも、後藤又兵衛(後藤基次)がここで死ぬというので、後藤又兵衛(後藤基次)を連れて撤退するのは難しかった。

後藤又兵衛(後藤基次)は「敵の手にかかるな。私をうち捨てよ」と命じて兜を脱いだので、金方平左衛門は後藤又兵衛(後藤基次)を介錯して、その首を田に埋めた。

後藤又兵衛(後藤基次)は数時間にわたる激戦の末、慶長20年(1615年)5月6日午前11時ごろに討ち死した。享年56であった。

霧の影響で、待ち合わせ場所に遅刻していた薄田兼相・キリシタン明石全登・真田幸村・毛利勝永・大谷吉治ら豊臣軍は、後藤又兵衛(後藤基次)が討ち死にしたころになって、ようやく合流地点へとやってきた。

その他の黒田家の家臣については、「実話・軍師・黒田官兵衛(黒田如水)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

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