備中高松城の水攻め

2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ播磨編「高松城の水攻め(高松城の戦い)のあらすじとネタバレ」です。

このページは「黒田官兵衛の淡路平定と安宅河内守の誅殺のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■宇喜多直家の死
但馬(兵庫県北部)・因幡(鳥取県東部)を制圧した羽柴秀吉は、西へと兵を進めることになるが、その前に備前・備中・美作(いずれも岡山県)の大名・宇喜多家を抑える必要があった。

宇喜多直家は毛利輝元に属していたが、黒田官兵衛の説得により、織田信長側に寝返っていた。ところが、宇喜多直家が病床にあり、宇喜多家は揺れていたのだ。

そこで、羽柴秀吉は単身で岡山城を訪れて宇喜多直家を見舞い、長男・宇喜多八郎(後の宇喜多秀家)を羽柴秀吉の養子に迎え、織田信長の朱印状を付きで宇喜多家の安泰を保障すると、宇喜多直家は感謝して織田信長に従属することを誓った。

そして、羽柴秀吉から宇喜多家の安泰を保証された宇喜多直家は安心し、幼少の宇喜多八郎(後の宇喜多秀家)に家督を譲ると、天正10年(1582年)1月9日に死去した。

こうして、宇喜多家を従属させた羽柴秀吉は、天正10年(1582年)3月15日に播磨・但馬・因幡の3カ国の計2万の大軍を率いて中国征伐に向かったのである。このとき、黒田官兵衛は37歳であった。

■備中高松城の城主・清水宗治
天正10年(1582年)3月15日、羽柴秀吉は播磨・但馬・因幡の3カ国の計2万の大軍を率いて、姫路を出発した。ついに、毛利輝元と雌雄を決する時が来たのである。

天正10年(1582年)4月、羽柴秀吉は岡山県に入ると、宇喜多秀家の軍勢1万を加え、備中(岡山県西部)へ侵攻した。

対する毛利輝元は、備中(岡山県西部)にある備中高松城(岡山県岡山市北区高松)で羽柴秀吉を食い止めるため、足守川に沿って枝城6城(宮地山城・冠山城・鴨城・日幡山城・庭妹城・松島城)を築いて防備を固めた。

(注釈:備中高松城の名称は単に「高松城」だが、香川県の高松城と区別するため、「備中高松城」と呼ばれることが多い。)

備中高松城に枝城の6城を加えた足守川沿いの計7城を「境目7城」と言い、この境目7城が毛利輝元の防衛線であった。

(注釈:境目7城は北から、宮地山城・冠山城・備中高松城・鴨城・日幡山城・庭妹城・松島城という位置関係になる。)

備中高松城は備中平野にある平城だが、周囲が沼や池に覆われており、備中高松城へ通じる通路は細く、この通路を通れば備中高松城から狙撃されるため、兵士が近づくことの出来ない中国地方一の要害だった。

さらに、備中高松城の城主・清水宗治は武勇に優れ、忠義に熱い名将で、兄・清水宗知と弟・清水宗治も城主・清水宗治を良く支え、清水家は一致団結しており、士気は高かった。

■備中高松城攻め(高松城の戦い)
天正10年(1582年)4月、羽柴秀吉は、備前の宇喜多秀家の軍1万を加え、計3万の大軍で備中へ入った。

黒田官兵衛と蜂須賀正勝の2人は、備中高松城の城主・清水宗治に「備中・備後の2カ国を安堵する」と持ちかけたが、清水宗治は義を重んじて寝返らなかった。

他の境目7城の城主も調略には応じないため、羽柴秀吉は備中高松城の枝城6城を攻め落とし、備中高松城を孤立させる作戦に出た。

天正10年(1582年)4月、羽柴軍が境目7城の宮地山城を攻めたとき、黒田官兵衛の長男・黒田長政が初陣を果たし、敵兵1を討ち取った。このとき、黒田長政は15歳であった。

その後も羽柴秀吉は、次々の毛利軍の防衛戦である境目7城を攻め落とし、残る備中高松城へと迫った。

一方、毛利輝元は、小早川隆景の家臣・末近信賀(すえちかのぶよし)を備中高松城の援軍に派遣した。備中高松城は、末近信賀の援軍に加え、地元の志願兵が加わり、5500人に膨れあがった。

■備中高松城攻略
天正10年(1582年)5月、備中高松城の枝城を攻略した羽柴秀吉は、3万の大軍を率いて備中高松城へと迫ったが、中国地方一と唄われる備中高松城は池と沼に囲まれた要害で、備中高松城に近づく事が出来なかった。

備中高松城へ伸びる通路は細く、1度に大軍は通れないため、この通路を通って備中高松城を攻めても、備中高松城から鉄砲を撃たれ、大きな損害が出るだけだった。

そこで、羽柴秀吉が軍師・黒田官兵衛に相談すると、周囲を視察した軍師・黒田官兵衛は羽柴秀吉に水攻めを献策した。

備中高松城の近くに足守川が流れており、おりからの雨期で足守川が増水しているので、足守川を堰き止めて備中高松城を水攻めにするという作戦である。これが世に言う「備中高松城の水攻め」である。

水攻めを採用した羽柴秀吉は、周辺の住民を総動員して、備中高松城の周囲に土俵を積み上げ、長さ3.2km・高さ6mの堤防を、わずか17日で築き上げた。

このとき、羽柴秀吉は、土俵1票に対して、銭100文または米1升という破格の報酬を与えたため、周辺の住民は羽柴秀吉に感謝して堤防を築いたという。

(注釈:黒田官兵衛はアイデアを出しただけで、実際に土木工事を行ったのは、羽柴秀吉の家臣・蜂須賀正勝だとされている。)

さて、堤防が完成すると羽柴秀吉は、足守川に大きな石や木を投げ込んで堰きとめ、高松上へ水を引き込もうとしたが、足守川は増水しているため、石や木が流され、いっこうに堰きとめることが出来なかった。

そこで、羽柴秀吉は軍師・黒田官兵衛に「汝の才覚で何とかして欲しい」と頼んだ。

すると、軍師・黒田官兵衛は、足守川の下流にある港から船を20~30隻を足守川に持ってきて、隙間ができないように並べて連結すると、船に石をたくさん積み込み、船底に穴を開けて沈めた。

そして、そこへ、石や木を投げ込み、見事に足守川を堰き止め、備中高松城へ水を引き入れることに成功したのである。

おりからの雨期で足守川は増水しており、堤防によって堰き止められた足守川の水は、みるみるうちに備中高松城の周辺を覆い、備中高松城をも浸水させ、備中高松城は水に浮かぶ城となった。

備中高松城の窮地を知った毛利輝元は、「毛利の両川」こと吉川元春・小早川隆景を救援に向かわせると、毛利輝元も1万の軍を率いて備中高松城の援軍に向かった。

■備中高松城の水攻め-毛利との交渉
天正10年(1582年)5月中旬、羽柴秀吉は3万の軍勢で備中高松城を包囲し、足守川の堤防を作っていたころ、毛利の総大将・毛利輝元が出陣するという噂が聞こえてきた。

そこで、羽柴秀吉は毛利輝元と雌雄を決するため、織田信長に援軍を要請した。

対する毛利軍は、吉川元春が1万の軍勢で岩崎山に布陣し、小早川隆景が2万の軍勢で日差山に布陣した。

そして、毛利輝元は備中高松城から23km離れた猿掛山に、1万の軍勢で布陣した。しかし、羽柴軍も大軍のため、毛利輝元は手が出せない。

一方、足守川の堤防は完成し、足守川の水が備中高松城を覆い尽くそうしていた。備中高松城は水面に浮かぶ城となり、城内は船で行き来しなければならない有様だった。羽柴秀吉も水軍を用意して、備中高松城を攻めるという有様であった。

さて、備中高松城は包囲されており、毛利輝元は救出が難しいと判断し、備中高松城の清水宗治に使者を送り、「援軍を送れないから、羽柴秀吉に降伏するよう」と降伏を促したが、清水宗治は降伏を拒否して徹底抗戦を誓った。

さて、羽柴秀吉から援軍の要請を受けた織田信長は、中国討伐の親征を決定すると、徳川家康の接待を務めていた明智光秀に出陣を命じ、親征の準備を始めた。

信長親征の噂が毛利側に届くと、毛利輝元は、毛利家の外交僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を羽柴秀吉の元に派遣し、休戦を申し入れた。

しかし、羽柴秀吉が要求した条件は、大幅な領地割譲と備中高松城の城主・清水宗治の切腹という厳しい条件だったため、交渉は難航した。

すると、軍師・黒田官兵衛は、「我々の軍も長い戦いで疲弊している。戦争が長引けば、我々が不利になる」と言って羽柴秀吉を説得し、領地削減の条件を緩和させ、休戦を優先させた。

しかし、説得を受けた羽柴秀吉は、領地削減の条件を緩和したものの、備中高松城の城主・清水宗治の切腹は譲らなかった。

これに対し、毛利輝元は「清水宗治を見殺しにしたとしては末代までの恥である。領地は減っても清水宗治は助ける」と言い、清水宗治の助命を求めたため、休戦には至らなかった。

このようななか、天正10年(1582年)6月3日夜、羽柴秀吉の陣営に、織田信長の茶道相手をしていた長谷川宗仁(はせがわ・そうにん)の使者が飛び込んできたのである。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)の生涯」のあらすじとネタバレ「実話・本能寺の変のあらすじとネタバレ」へ続く。