菅和泉(菅正利)のwiki

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公・黒田官兵衛の生涯を実話で描く「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの黒田家家臣編「菅和泉の生涯のあらすじとネタバレ」です。

■菅和泉(菅正利)のwiki
菅和泉は黒田家の家臣を代表する「黒田24騎」の1人で、新免無二流(宮本武蔵の父親の流派)と疋田陰流の両方を極めた剣豪である。

黒田家は一つの戦で7つの首級を挙げると、赤具足を許される決まりがあり、菅和泉は1度に7つ以上の首級を挙げ、赤具足を許された。黒田24騎で赤具足を許されたのは、菅和泉と井口兵助吉次の2人だけである。

(注釈:黒田家の家臣・井口兵助吉次の生涯については「井口兵助(村田吉次)のwiki」をご覧ください。)

菅和泉は、第94代内閣総理大臣・菅直人を排出した美作・菅氏と同族だが、菅和泉は美作・菅氏から枝分かれした播磨・菅家なので、直接の血縁関係は無い。

■菅和泉の生涯
菅和泉は本名を「菅正利」という。幼名は「菅孫次」で、後に「菅六之助」を名乗り、晩年は「菅和泉」を名乗った。そして、黒田長政の死後に剃髪し、「松隠宗泉」と名乗った。

菅和泉は永禄10年(1567年)に父・菅七郎兵衛の嫡子として、播磨国揖保郡越部で生まれた。

菅和泉の播磨・菅氏は美作国(岡山県)の名家・菅氏の支流で、播磨に移り住み、代々、播磨に領土を持ち、裕福な家柄だった。

しかし、播磨・菅氏は領土を奪われて衰退したため、父・菅七郎兵衛は嫡子・菅和泉を黒田官兵衛に預けた。

■菅和泉の初陣
天正11年、菅和泉は17歳のとき、羽柴秀吉と柴田勝家が争った「賤ヶ岳の戦い」で初陣を果たし、敵将2人を討取り、名を馳せた。また、天正12年、岸和田の戦いで黒田長政に従って戦い、高名を上げた。

■菅和泉と黒田玉松
天正15年、菅和泉は、日向国の耳川で、薩摩・島津家の軍勢と戦い功績を挙げた。

このとき、菅和泉は薩摩軍が敗走したので、引き返そうとしたが、逃げ遅れた薩摩軍の足軽1人が鉄砲を担いで逃げており、黒田家の家臣・黒田玉松(黒田一成)らが、逃げ遅れた足軽を追撃しようとした。

すると、菅和泉は「あれは味方の兵なり」と言い、追撃しようとした黒田玉松(黒田一成)を止めた。このため、逃げ遅れていた薩摩軍の足軽は、無事に逃げ延びた。

後日、黒田玉松(黒田一成)らが、足軽を討ち損ねた事を遺恨に思い、「薩摩の兵を取り逃がしたのは、お前のせいだ」と菅和泉を責めた。

すると、菅和泉は「足軽のような雑兵1人を討ったとしても、敵の損にもならないし、味方の徳にもならない。もし、雑兵を討つために何人もが追撃すれば、雑兵も必死になって鉄砲を撃つだろう。雑兵1人を討つために、歴戦の武将が討たれては、いかほどの損害になろう。私はそういう考えで、敵とは知っていたが、逃がしたのだ」と答えた。

菅和泉の言葉を聞いた黒田玉松(黒田一成)らは、もっともだと納得し、菅和泉に感心した。

■井城攻め
黒田官兵衛が豊前国を拝領すると、豊前の城井谷城の城主・城井鎮房が一揆を起こした。菅和泉は城井谷城を攻めるたとき、手柄を上げた。

このため、黒田長政は自ら貞宗の脇差しを取り、菅和泉に与えた。

■父・菅七郎兵衛の仕官
黒田官兵衛が豊前国を拝領すると、菅和泉は黒田官兵衛に従って豊前国へと移り住んだが、父・菅七郎兵衛は播磨に残った。

しかし、豊臣秀吉による朝鮮出兵の前、播磨に残っていた父・菅七郎兵衛は、妻子を引き連れて豊前国へと下り、中津城の城主・黒田官兵衛に仕えた。こうして、親子で黒田家に仕えるようになった。

■菅和泉の朝鮮出兵
第1次朝鮮出兵では、親子で朝鮮半島に渡り、黒田長政の先手として所々で手柄を上げ、菅和泉は黒田長政から采配を賜った。

あるとき、朝鮮の軍勢が攻めてくるという知らせが入り、黒田長政さは菅和泉と足軽頭に伏兵を命じた。このとき、菅和泉は、部隊を離れて偵察に来た敵将を討取った。

この武将が朝鮮軍の兵数などを記した書簡を持っていたので、黒田長政は「菅和泉の今日の働きは、敵100騎を討つよりも優れている」と褒め称えた。

■菅和泉の虎刈り
文禄3年2月13日、黒田軍が朝鮮の機張城に滞在中していたとき、黒田長政が虎刈りに出た。このとき、黒田長政が鉄砲で虎を撃ち殺したのに続き、菅和泉は虎を一太刀で斬り殺した。

菅和泉は新免無二流と疋田新陰流を極めた剣の達人で、菅和泉が虎刈りに使用した刀は、長さが2尺3寸1分(70cm)ある備前吉次の作った名刀だった。後に林羅山がこの刀を「南山」と名付けた。

■菅和泉と朝鮮虎の呪い
慶長2年9月7日、第2次朝鮮出兵のとき、菅和泉は敵軍を相手に奮闘するが、江南人(韓国人)の放つ毒矢で負傷した。

初めは何ともなかったが、矢に毒が塗ってあったため、右の耳が赤くなり、常に膿血が出て止まらなくなった。このため、菅和泉は全体の顔色も恐ろしくなり、醜い顔になった。

この時の毒矢の影響で菅和泉には生涯消えないアザが出来たため、子供たちは「菅和泉は朝鮮で虎を斬り殺し、血を浴びたので、顔が腐ったのだ。朝鮮虎の呪いだ」と言って菅和泉を恐れるようなった。菅和泉の名前を出せば、泣く子も黙るほど、恐れられていた。

菅和泉は2度にわたる朝鮮出兵で功績を挙げたが、その功績を語らなかったため、詳しいことは分からない。

■菅和泉の関ヶ原の合戦
菅和泉は関ヶ原の合戦のとき、黒田長政に従い、足軽50人を率いて戦った。黒田長政が小早川秀秋を寝返らせようとしたとき、菅和泉が使者を務めた。

関ヶ原の合戦の本戦では、菅和泉は鉄砲隊を率いて石田三成の先手・島左近の軍勢を狙撃し、追散させ、徳川家康連合軍の勝利に大きく貢献した。

■筑前時代
父・菅七郎兵衛は所々で武功を上げており、黒田長政が筑前を拝領すると、1300石を拝領する。菅和泉は筑前の怡土群に3000石を拝領し、与力16人を与えられた。

怡土群を拝領した菅和泉は、髙祖山の古城の北にある飯氏村に親族や従者を住まわせた。もし、戦争になれば、古城へ立てこもり、西側の押さえにするためである。

さて、菅和泉は新免無二流と疋田陰流の両方を極めた剣豪でもあったが、知力も優れていたため、黒田長政は菅和泉を家老並に、将軍の御前にお目見えさせようとしたが、菅和泉の頬に出来たアザが腐り、人相が見苦しいため、お目見えは中止した。

しかし、国元の筑前では、菅和泉は家老と同様に諸事を預かり、黒田長政から賜る書面にも家老と同様に署名した。

元和元年3月2日、父・菅七郎兵衛が死去する。父・菅七郎兵衛の領地は次子・孫市右衛門正周が相続する。

元和7年10月24日、菅和泉は家禄を嫡子・菅主水重俊に譲って隠居する。

しかし、黒田長政は菅和泉の才覚を惜しみ、家督相続は許したが、隠居は許さず隠居領として1200石を与え、福岡城南丸に置いて城番をさせた。

元和9年8月4日、黒田長政が死亡すると、菅和泉は悲しんで剃髪し、松隠宗泉と名乗った。永禄6年6月29日、菅和泉は病で没す。菅和泉は59歳だった。

黒田官兵衛や黒田家家臣の情報は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

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