黒田官兵衛の山崎の戦いと明智光秀の死亡

2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ播磨編「黒田官兵衛の山崎の戦い(天王山の戦い)と明智光秀」です。

このページは「実話-黒田官兵衛の中国大返しのあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」の総合あらすじとネタバレは「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■黒田官兵衛と山崎の戦い(天王山の戦い)
天正10年(1582年)6月12日、大阪の諸将を味方に付けた羽柴秀吉は、摂津の富田(大阪府高槻市)で中川清秀や高山右近らと軍議を開き、明智光秀討伐軍の事実上の総大将に就任する。

軍議を終えると、中川清秀や高山右近は、京都を目指し、その日のうちに天王山(大阪と京都の境)に陣を敷いた。

その後、羽柴秀吉が天王山に到着すると、既に中川清秀と高山右近らは、明智光秀の軍勢と小競り合いを始めていた。

■明智光秀の本能寺の変
天正10年6月2日に本能寺で織田信長を討った明智光秀は、6月5日に織田信長の居城・安土城を占領して近江(滋賀県)を平定し、諸大名に勧誘の書状を送った。

さらに、明智光秀は6月9日に上洛しを果たし、朝廷に金品を献上して工作を行い、天下は明智光秀になるものかと思われた。

しかし、明智光秀の読みが外れた。明智光秀は織田信長を討ったものの、織田信長の首を取っていたなため、近畿では真偽不明の情報が錯綜し、近畿の大名は対応を決めかねていたのだ。

織田信長は気性が激しいことが有名で、万が一にも織田信長が生きているようなことがあれば、明智光秀に味方することは死を意味していたからである。

そのようななか、明智光秀は、明智光秀の三女・明智珠(細川ガラシャ)と結婚した娘婿・細川忠興に、「100日のうちに近畿を平定したら、私は隠居して全てを細川忠興に譲る」と言い、協力を要請した。

しかし、細川忠興は正室・明智珠(細川ガラシャ)を丹後国の味土野(京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉し、明智光秀への協力を拒否する。

さらに、明智光秀は親戚関係にある細川藤孝・細川忠興からも協力を得られなかった。明智光秀の不運は続き、明智光秀に恩義のある筒井順慶からも協力を拒否された。

三箇城(大阪府)の城主・三箇頼照の様に、謀反人の明智光秀に味方した者もしたが、本能寺で織田信長を討った明智光秀は、孤立無援の状態だった。(注釈:三箇頼照はキリシタンで、洗礼名は「サンチョン」である。)

このようななか、天正10年(1582年)6月10日、明智光秀の元に、羽柴秀吉の軍が近畿に迫っているという知らせが入る。

明智光秀が本能寺の変を起こしたのは8日前の6月2日である。備中の高松城で毛利軍と戦ってた羽柴秀吉が、本能寺の変から8日後に近畿に迫るということは、明智光秀にとって想定外のことだった。

明智光秀は細川忠興・細川藤孝からも協力を得られず、孤立無援のまま準備不足で羽柴秀吉との対決に望まなければならなかった。

明智光秀は京都へ入る前に羽柴秀吉を食い止めるため、下鳥羽(京都市伏見区)に布陣し、京都と大阪の県境付近を流れる円明寺川(現在の小泉川)で羽柴秀吉を迎え撃つ作戦に出た。

勧誘工作に失敗した明智光秀には加勢が無く、1万6000の軍勢で羽柴秀吉を迎え撃つのに対して、摂津の有力武将を味方に付けた羽柴秀吉は6月12日に4万の軍勢で県境にある天王山に布陣した(山崎の合戦=天王山の戦い)。

■山崎の合戦(天王山の戦い)
天正10年(1582年)6月12日、摂津の富田(大阪府高槻市)での軍議を終えた羽柴秀吉の軍勢は、その日のうちに天王山に陣取り、円明寺川(現在の小泉川)を挟んで、明智光秀の軍と対峙する。羽柴秀吉が天王山に到着したときには、既に小競り合いが始まっていた。

天正10年(1582年)6月13日、下鳥羽(京都市伏見区)に布陣していた明智光秀は南進し、勝竜寺城(京都府長岡京市)を前戦基地として、勝竜寺城から南西数キロにある御坊塚(京都府長岡京市)に布陣し、天王山に布陣する羽柴秀吉と対峙した。

天正10年(1582年)6月13日午後4時ごろ、小競り合いが続くなか、明智光秀の軍勢が、天王山の東麓に布陣する羽柴軍の中川清秀を襲撃し、ついに戦いの火蓋が切って落とされる。

明智光秀は善戦したが、兵力の差はいかんともしがたく、明智光秀は御坊塚の後方にある勝竜寺城へと敗走した。このとき、明智光秀の兵は、わずか数100人に減っていたという。

羽柴秀吉は明智光秀を追撃して勝竜寺城を包囲すると、軍師・黒田官兵衛は羽柴秀吉に「完全に包囲せず、1ヶ所だけ逃げ道を開けておけば、兵はそこから逃げ出すでしょう。こそを討てば良いのです」と言い、兵士が逃げやすいように明智光秀の居城・坂本城の方角の包囲を解くように進言した。

完全に包囲せずに逃げ道を作る作戦は、兵法の常道手段であり、黒田官兵衛が佐用城攻めでも使用した作戦である。

羽柴秀吉は黒田官兵衛の進言を採用し、明智光秀の居城・坂本城の方角の包囲を解くと、軍師・黒田官兵衛の狙い通り、勝竜寺城の兵士は逃げ出した。

兵が逃げ出してしまえば、戦うことは出来ず、明智光秀は数人の側近だけを連れ、闇夜に紛れて田んぼ道を通って勝竜寺城から逃げした。

明智光秀は黒田官兵衛らの目をかいくぐり、勝竜寺城から逃げ出すことに成功し、居城・坂本城(滋賀県大津市)へ目指したが、小栗栖(京都府京都市伏見区小栗栖小阪町)で土民の落ち武者狩りに遭い、命を落とした。

天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変を起こして織田信長を討ち取った明智光秀は、11日後の6月13日に生涯を閉じた。この11日間を俗に「三日天下」という。

この年に黒田官兵衛の妻・櫛橋光は、次男となる黒田熊之助(くろだ・くまのすけ)を出産した。黒田熊之助が生まれた天正10年(1582年)、黒田官兵衛は37歳であった。

実話「黒田官兵衛の清洲会議と賤ヶ岳の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。

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