女城主・井伊直虎のあらすじとネタバレ

2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主・直虎」の主人公となる井伊直虎の生涯をあらすじとネタバレで描いた「女城主・井伊直虎」のあらすじとネタバレです。

■井伊直虎の概要

井伊直虎は、遠江国引佐郡井伊谷(静岡県浜松市)の国人・井伊直盛の娘で、井伊家の危機に女当主として活躍した。徳川家康の家臣・井伊直政の養母にあたる人物である。

■女城主・井伊直虎のあらすじとネタバレ

井伊直虎は、遠江国引佐郡井伊谷(静岡県浜松市)を支配する井伊谷城の城主・井伊直盛の長女として生まれた。誕生日は不明。母親は正室・友椿尼である。

井伊直虎は後に名乗ることになる男性名で、生まれた時は女性名だったはずだが、女性名は伝わっていない。

誕生日も不明で、出家して「次郎法師」「祐圓尼」を名乗った後、女城主となり、男性名の「井伊直虎」を名乗った。

■井伊氏の歴史

井伊氏は遠江国引佐郡井伊谷(静岡県浜松市)を支配する国人(豪族)で、遠江国の守護大名・斯波義達に属して、遠江国へと侵攻してきた駿河(静岡県中部・北部)の守護大名・今川氏に抵抗していたが、今川氏に降伏し、今川氏に仕えるようになった。

やがて、遠江(静岡県西部)を平定した今川氏は、駿河(静岡県東部)・遠江国の守護代となる。

井伊直虎の祖父・井伊直宗は、主家の今川義元に従って三河田原城を攻め、天文11年(1542年)1月29日に討死した。

祖父・井伊直宗の死により、祖父・井伊直宗の子・井伊直盛(井伊直虎の父)が家督を相続し、井伊家の15代当主になった。

■亀之丞(井伊直親)と婚約

父・井伊直盛は、子供が娘・井伊直虎だけで、跡取りが居なかったため、一族・井伊直満の子・亀之丞(井伊直親=9歳)を婿養子に迎え、娘・井伊直虎(推定7歳前後)と婚約させることにした。

[注釈:井伊氏の中で男児は、9歳の亀之丞(井伊直親)だけだった。]

しかし、井伊直盛の家老・小野道高(小野政直)は、亀之丞(井伊直親)の父・井伊直満を激しく嫌っていたので、この結婚を阻止するため、天文13年(1544年)、主家の今川義元に「井伊直満と井伊義直に謀反の疑い有り」と讒訴したのである。

これを受けた今川義元は、井伊直満と井伊義直の兄弟を審問して自害させたうえ、井伊直満の子・亀之丞(井伊直親)も処刑しようとした。

この危機を救ったのが、井伊直満の家老・今村藤七郎(今村正実)である。家老・今村藤七郎(今村正実)は9歳の亀之丞(井伊直親)を連れて屋敷を脱出し、信州国伊那郡市田村にある松源寺に身を寄せた。

そして、家老・今村藤七郎(今村正実)と亀之丞(井伊直親)は、信州国伊那郡市田村にある松源寺で、地元有力者の庇護を受けて10年を過ごした。

そして、この10年の間に、亀之丞(井伊直親)は代官・塩沢氏の娘を妻に迎え、2人の子供を儲けた。(注釈:ただし、正式な結婚ではないようである。)

一方、井伊家は、亀之丞(井伊直親)は井伊家で唯一の男児であるため、亀之丞(井伊直親)の生死さえも秘密にした。

亀之丞(井伊直親)の復帰

讒訴した家老・小野道高(小野政直)は井伊家で大きな影響力を持っていたため、父・井伊直盛は、井伊家の混乱を恐れて、家老・小野道高(小野政直)を処分することが出来ずに讒訴を黙殺していた。

しかし、讒訴から10年後に家老・小野道高(小野政直)が病死する。

父・井伊直盛は、家老・小野道高(小野政直)が死んだ事を切っ掛けに、主家の今川義元に亀之丞(井伊直親)の助命嘆願を行い、亀之丞(井伊直親)は赦免された。

こうして、恩赦を受けた亀之丞(井伊直親)は、家老・今村藤七郎(今村藤正実)と共に井伊谷に戻った。

このとき、亀之丞(井伊直親)は塩沢氏の娘を妻にしていたが、井伊家に認められた正式な結婚ではなかったので、男子は跡取り問題が生まれるため、妻と男児を残し、娘だけを連れ、井伊谷へと帰った。

■井伊直虎の出家

さて、井伊直虎は井伊直親(亀之丞)の許嫁だったが、井伊直親(亀之丞)が既に結婚して子供も生まれている事を知り、出家を決意する。

このころ、男性は出家しても還俗すれば家督を相続できるが、女性は一度出家して尼となると、還俗する事が出来なかった。

そのため、井伊家の菩提寺である龍潭寺の和尚・南渓瑞聞は、井伊家の男子が断絶した時に備え、井伊直虎を「次郎法師」という男性(僧)の名前で、男性(僧)として出家させた。

このため、父・井伊直盛は、亀之丞(井伊直親)を正式に養子として迎え、井伊一族の奥山朝利の娘と結婚させた。

これ以降、亀之丞(井伊直親)は以降、「井伊直親」を名乗るようになる。

■織田信長の野望-桶狭間の戦い

井伊直親(亀之丞)が井伊家に復帰してから4年後の永禄2年(1559年)、尾張(愛知県西部)の織田信長が尾張の統一を果たした。

一方、駿河・遠江・三河の三国を支配する今川義元は、武田信玄・北条氏康・今川義元の三者で結んだ三国同盟「甲相駿三国同盟」を背景に、永禄3年(1560年)5月に2万5000の軍勢で尾張(愛知県西部)へと侵攻した。

父・井伊直盛は今川義元5000の先鋒を務め、今川義元に従って出陣したが、桶狭間で織田信長2000の奇襲攻撃を受け、今川義元と共に討死してしまう。

桶狭間の戦いで、父・井伊直盛のほか、重臣16名が討死しており、井伊家は大きな被害を受けた。

一方、桶狭間の戦いで勝利した織田信長は、天下に織田信長の名をとどろかせた。

他方、今川義元の支配下にあった三河(愛知県東部)の松平元康(徳川家康)は、今川義元が戦死した混乱に乗じ、岡崎城(愛知県岡崎市)を取り返して今川家から独立し、翌年の永禄4年(1561年)に織田信長と清洲同盟を結んだ。

■家老・小野道好の讒訴

さて、父・井伊直盛が桶狭間の戦いで討死したため、養子の井伊直親(亀之丞)が家督を相続して井伊家16代当主となった。

そして、桶狭間の戦いの翌年の永禄4年(1561年)2月9日、井伊直親(亀之丞)に嫡男・虎松(井伊直政)が生まれる。母親は、奥山朝利の娘である。

このようななか、井伊家の家老・小野道好が、主家の今川氏真(桶狭間の戦いで討死した今川義元の子)に「井伊直親(亀之丞)が徳川家康や織田信長に通じて謀反を企てている」と讒訴したため、今川氏真が激怒する。

井伊直親(亀之丞)は釈明のために、今川氏真の駿府城へ向かおうとしたが、掛川に差し掛かったところで、今川家の重臣で掛川城の城主・朝比奈泰朝(あさひなやすとも)に襲われ、井伊直親(亀之丞)と家臣19人は誅殺された。

今回、讒言した家老・小野道好は、以前、今川義元に「井伊直満と弟・井伊義直に謀反の疑い有り」と讒言した家老・小野道高(小野政直)の子で、家老・小野氏は親子2代にわたり讒言し、井伊家当主は2代にわたり、家老・小野氏の讒言が原因で死去した。

このとき、今川義元は2歳の虎松(井伊直政)も誅殺するように命じていたので、虎松(井伊直政)も命を狙われたが、家臣・新野親矩(新野左馬助)が危機を察知して虎松(井伊直政)を匿い、虎松(井伊直政)は難を逃れた。

■祖父・井伊直平の返り咲き

16代当主・井伊直親(亀之丞)が誅殺されたため、井伊家の男性は井伊直虎の曾祖父・井伊直平と、2歳の虎松(井伊直政)だけとなる。

曾祖父・井伊直平は井伊家13代当主を務めた人物で、既に隠居していたが、16代当主・井伊直親(亀之丞)が誅殺されて井伊家の当主が不在となったことを受け、井伊家の当主に復帰した。

もう1人の女城主・椿姫(お田鶴の方)

今川家は永禄3年(1560年)5月の「桶狭間の戦い」で織田信長に大敗して以降、衰退の一途をたどり、遠江(静岡県西部)では今川氏の支配力が弱っていた。

そこへ、三河の徳川家康が遠江へと調略の手を伸ばしてきたため、遠江の国人が相次いで今川氏に反旗を翻し、遠江は混乱期に突入する。世に言う「遠州錯乱」である。

このようななか、永禄6年(1563年)、今川氏真に属していた遠江・犬居城(静岡県浜松市)の城主・天野景貫が、今川氏の衰退を見て、三河の徳川家康に寝返った。

怒った今川氏真は井伊家に天野景貫討伐の命を下す。

曾祖父・井伊直平は、今川氏真の命令を受け、天野景貫の居城・犬居城(静岡県浜松市)へと向かう。その途中で今川方の引馬城(ひくま城)に立ち寄った。

引馬城(ひくま城)は静岡県浜松市にある城で、「曳馬城」「引間城」とも表記する。引馬城は後に浜松城となる城である。

引馬城の城主は今川家の家老・飯尾連竜で、飯尾連竜の妻は椿姫(お田鶴の方)といった。

井伊直平も飯尾連竜も今川家の家臣だったが、両氏は遠江(静岡県西部)で勢力争いをしていた。(注釈:飯尾連竜は徳川家康に内通していたという説もある。)

そこで、飯尾連竜の妻・椿姫(お田鶴の方)は一計を案じ、引馬城に立ち寄った井伊直平に毒入り茶を飲ませて、井伊直平を暗殺したのである。

(注釈:ただし、井伊直平は75歳、別説では85歳という高齢だったので、椿姫に毒殺されたのではなく、単なる急死だったという説もある。)

すると、今川氏真は、引馬城の城主・飯尾連竜が離反したと思い、井伊家に引馬城を攻めを命じ、井伊家は永禄7年(1564年)に引馬城を攻めた。

しかし、井伊家は引馬城を落とせなかったうえ、虎松(井伊直政)を保護していた家臣・新野親矩(新野左馬助)などが討死し、井伊家を支えていた大勢の家臣を失ってしまった。

さて、引馬城の城主・飯尾連竜は、寝返りを否定し、えん罪を主張したので、引馬城を攻め落とせなかった今川氏真は一計を案じた。

今川氏真は、引馬城の城主・飯尾連竜に和睦を持ちかけて駿府へと呼び寄せ、曳馬城の城主・飯尾連竜を誅殺したのである。

このため、曳馬城の飯尾家は大混乱になり、家臣は逃げてしまい、僅かな家臣と兵士が残るだけとなったが、城主・飯尾連竜の妻・椿姫(お田鶴の方)が、亡き夫・飯尾連竜の後を継ぎ、曳馬城の女城主となるのである。

■虎松(井伊直政)の暗殺計画

さて、曳馬城の城主・飯尾連竜を誅殺した今川氏真は、虎松(井伊直政)が生きている事を知り、虎松(井伊直政)も誅殺しようとした。

井伊直平が椿姫(お田鶴の方)に毒殺されたことにより、井伊家の男性は幼い虎松(井伊直政)だけとなっており、虎松(井伊直政)が死ねば、井伊家の男系は断絶することになる。

そこで、井伊家の家臣・新野親矩(新野左馬助)の妻は、機転を利かせて虎松(井伊直政)を出家させて寺に入れ、虎松(井伊直政)を守った。

新野親矩(新野左馬助)と妻は、2度に渡り虎松(井伊直政)を救い井伊家断絶の危機を救ったため、井伊家から「井伊氏1000年の歴史で、最大の危機を救った」と評価されている。

虎松(井伊直政)は出家したが、それでも命を狙われたため、龍潭寺の和尚・南渓瑞聞は虎松(井伊直政)を三河の鳳来寺へと移した。

それでも、今川氏真は執拗に虎松(井伊直政)の命を狙ったので、虎松(井伊直政)の母・奥山氏は松下源太郎清影と再婚し、虎松(井伊直政)を松下源太郎清影の養子に入れ、虎松(井伊直政)を井伊家から除籍した。

■女城主・井伊直虎の誕生

さて、井伊家で唯一の男性だった虎松(井伊直政)が松下家の養子になったため、井伊家に男性は居なくなり、井伊家の男系は断絶してしまう。

(注釈:龍潭寺の和尚・南渓瑞聞は井伊家の一族だが、出家しているので家督は継げない。)

そこで、永禄8年(1565年)、龍潭寺の和尚・南渓瑞聞は、男性名で出家していた次郎法師(井伊直虎)を還俗させて井伊家の当主にした。

こうして、次郎法師(井伊直虎)が井伊家の当主となったのである。

■井伊直虎の井伊谷徳政令

さて、井伊直虎は男性の名前「井伊次郎直虎」を名乗り、井伊家の当主として政治を行い、遠江国引佐郡井伊谷(静岡県浜松市)を治めた。

このようななか、重い年貢と不作によって借金がかさんだ井伊谷(静岡県浜松市)の農民が、徳政令(借金を帳消し令)を求めて主家の今川家に訴えた。

農民の訴えを受けた今川氏真は永禄9年(1566年)、井伊谷城の女城主・井伊直虎に徳政令(借金を帳消し令)の公布を命じた。

一説によると、今川氏真は遠江国引佐郡井伊谷(静岡県浜松市)の直接支配を目論んでおり、井伊谷から井伊氏を排除するため、井伊直虎に徳政令を命じたという。

こうして、女城主・井伊直虎は、徳政令を出せば、商人が破綻して井伊家も資金繰りに行き詰まり、徳政令を出さなければ、農民が一揆を起こすという難しい局面を迎えたのである。

これ対して女城主・井伊直虎は、領民に説明する時間が必要だという口実で徳政令(借金を帳消し令)を延期して、その間に徳政令免除の措置などを行い、商人や金融業(寺)を保護し、井伊家の経済を確保していった。

今川氏真から再三にわたり、徳政令(借金を帳消し令)の公布を求められたが、女城主・井伊直虎は主家の今川氏真に毅然とした態度で対応して時間を稼いだ。

しかし、ついに、今川氏真からの圧力に耐えられなくなり、井伊直虎は最初の命令から2年後の永禄9年(1566年)11月9日に徳政令(借金を帳消し令)を公布した。

女城主・井伊直虎は、徳政令を延期した2年の間に、各方面に被害が最小限に食い止められるように対策を施し、見事な政治手腕で徳政令の被害を最小限に抑え、井伊家の危機を乗りきった。これが世に言う「井伊直虎の井伊谷徳政令」である。

ところが、井伊直虎が徳政令を出した事を切っ掛けに、今川氏真は井伊直虎を追放して井伊谷を直轄地とし、井伊家の家老・小野道好を井伊谷城の城代に置いたのである。

こうして失脚した井伊直虎は、井伊谷城を出て、龍潭寺へと身を寄せた。

■井伊直虎の復権

さて、甲斐(山梨県)の武田信玄は、甲相駿三国同盟を背景に信濃(長野県)へと侵攻し、信濃北部で越後(新潟県)の上杉謙信と対立したが、5度に渡る「川中島の戦い」でも決着が付かなかった。

そこで、武田信玄は方針を転換し、弱体の一途をたどっていた同盟国・今川氏真と手切りし、織田信長・徳川家康と同盟を結んだ。

そして、武田信玄は徳川家康と領土分割の密約を結び、今川氏真の領土へと侵攻を開始する。

このため、遠江(静岡県)の国人は、徳川家康・武田信玄・今川氏真の誰に属するかの選択を迫られる。

遠江(静岡県)の国人の多くは武田信玄に属する事を選んだようだが、失脚して井伊谷城を失った井伊直虎は、徳川家康に属することを選んだ。

そこで、今川家に反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)が、井伊直虎に味方し、三河国の徳川家康を遠江国(静岡県)へ引き入れて道案内した。

井伊直虎は、井伊谷三人衆や徳川家康の力を借り、瞬く間に居城・井伊谷城を取り戻して、家老・小野道好を追放し、女城主へと返り咲いた。

その後、井伊直虎の訴えを受けた徳川家康は、家老・小野道好を捕らえると、事実無根で讒訴したとして、家老・小野道好と息子2人を獄門磔にして処刑した。

■虎松(井伊直政)のお目見え

武田信玄と徳川家康の両氏の侵攻を受けた今川氏真は、永禄12年(1569年)5月に駿河・遠江を捨てて相模の北条氏を頼り、大名としての今川氏は滅んだ。

この結果、遠江国(静岡県)は徳川家康の支配下になり、井伊谷城の女城主・井伊直虎は徳川家康の元で復権を果たすと、許嫁だった井伊直親(亀之丞)の遺児・虎松(井伊直政)を徳川家康の家臣にしようと考えた。

しかし、虎松(井伊直政)の母・奥山氏は松下源太郎清影と再婚したため、虎松(井伊直政)は還俗して松下源太郎清影の養子となり、井伊家から抜けていた。

このため、母・奥山氏は虎松(井伊直政)を井伊家に復帰させる事を拒否したが、虎松(井伊直政)が井伊直虎を選んだという。

こうして、井伊直虎は虎松(井伊直政)の教育を開始する。

しかし、井伊直虎の平穏な生活も束の間だった。

徳川家康と武田信玄は同盟を結んで、今川氏真を滅ぼしたが、武田信玄が遠江国(静岡県)へと触手を伸ばしてきたため、徳川家康は武田信玄と対立する。

その一方で、武田信玄は、織田信長との友好関係を保っていたが、武織田信長の比叡山の焼き討ちに激怒し、織田信長との関係も悪化する。

このため、甲斐(山梨県)の武田信玄は、足利義昭の第2次信長包囲網に呼応して、西上作戦を開始し、元亀3年(1572年)9月に徳川家康の三河国・遠江国へと侵攻したのである。

井伊谷城の女城主・井伊直虎は、徳川方として武田信玄に抵抗したが、武田家の山県昌景に井伊谷城を攻め落とされ、徳川家康の元に身を寄せた。

このようななか、元亀3年(1572年)、徳川家康が遠江国(静岡県)の三方ヶ原に鷹狩りに出たさい、女城主・井伊直虎は15歳になった虎松(井伊直政)を徳川家康にお目見えさせたのである。

虎松(井伊直政)は松下源太郎清影の養子になっていたので松下性になっていたが、徳川家康は虎松(井伊直政)が井伊直親(亀之丞)の遺児だと知ると、虎松(井伊直政)が井伊家に復帰することを許し、井伊氏が支配していた遠江国引佐郡井伊谷(静岡県浜松市)を虎松(井伊直政)に安堵した。

こうして、虎松(井伊直政)は、徳川家康に300石で出仕して「万千代」と名乗り、徳川家康の小姓となった。

■井伊直虎の死去

井伊直虎は、虎松(井伊直政)を徳川家康に出仕させた事を切っ掛けに、万千代(井伊直政)に井伊家の当主を譲り、菩提寺の龍潭寺に入って出家し、「祐圓尼」と名乗り、万千代(井伊直政)の活躍を見守った。

そして、井伊直虎は万千代(井伊直政)が元服した天正10年(1582年)に死去した。

■井伊直虎の死後

さて、西上作戦で徳川領へと侵攻した武田信玄は、元亀3年(1572年)12月の「三方ヶ原の戦い」で徳川家康を撃破。さらに、武田信玄は元亀4年(1573年)1月に徳川家康の三河国へと侵攻し、元亀3年(1572年)2月10日には野田城を落とした。

しかし、武田信玄は病に倒れたため、西上作戦は頓挫。武田軍は撤退を開始したので、万千代(井伊直政)は井伊谷城を回復した。

万千代(井伊直政)は元服が遅く、天正10年(1582年)に22歳で元服。以降、井伊直政と名を改めると、武田勝頼との戦いで数々の功績を挙げて頭角を現した。

天正10年(1582年)に織田信長が武田勝頼を攻め滅ぼすと、徳川家康は井伊直政に、武田家の家臣・山県昌景の赤備えを復活させ、井伊直政は精鋭部隊「赤備え部隊」を指揮する大将となった。

また、井伊直政は徳川家康の養女・唐梅院を正室に迎えて徳川一門の仲間入りをし、遠江国引佐郡井伊谷(静岡県浜松市)4万石に出世した。

井伊直政は精鋭部隊「赤備え部隊」を率いて数々の戦いで功績を挙げ、北条征伐の後に上野国箕輪城(群馬県高崎市)12万石を拝領して大名格になり、異例の早さで出世していく。

やがて、井伊直政は、本多忠勝・榊原康政・酒井忠次と共に徳川家を代表する家臣「徳川四天王」と呼ばれるようになり、関ヶ原の合戦の後、石田三成の旧領・近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を加増され、佐和山藩(彦根藩)18万石の藩主となった。

彦根藩・井伊家は、江戸幕府の大老5人を排出し、譜代大名の筆頭となった。諸大名が江戸幕府の命令で領地替えをするなか、彦根藩・井伊家は一度も領地替えをすることなく、西国の監視役として近江国佐和山を守った。

そして、幕末には、桜田門外の変で殺される彦根藩の第15代藩主・井伊直弼を排出し、彦根藩・井伊家は明治4年の廃藩置県まで続いた。