長宗我部元親の四国統一と黒田官兵衛の四国征伐

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ播磨編「長宗我部元親の四国統一と黒田官兵衛の四国征伐」です。

このページは「黒田官兵衛の大阪城普請と黒田長政の岸和田の戦いのあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレまとめは「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■長宗我部元親の四国統一
羽柴秀吉が紀州征伐を行っていたころ、四国では土佐(高知県)の長宗我部元親が、湯築城(愛媛県松山市)の河野通直を下して伊予(愛媛県)を征服し、四国統一を果たしていた。

元々、土佐(高知県)の長宗我部元親は織田信長と友好関係にあり、織田信長から四国の統一を許可され、長宗我部元親の阿波(徳島県)へと侵攻したが、織田信長が方針転換をして四国統一を認めなかったため、織田信長と対立した。

織田信長は神戸信孝を総大将とした四国征伐軍(長宗我部征伐軍)を送る予定であったが、神戸信孝の渡航直前に、織田信長は本能寺で明智光秀に討たれて死んだため、四国征伐は立ち消えになった。

本能寺の変の後、羽柴秀吉が織田信長の後継者としての地位を確立するため、近畿で覇権争いをしていたころ、土佐の長宗我部元親は阿波と讃岐へと着々と侵攻していた。

そして、長宗我部元親は伊予(愛媛県)へと侵攻し、天正13年(1585年)春に湯築城(愛媛県松山市)の河野通直を下して伊予(愛媛県)を征服し、四国統一の偉業を成し遂げたのである。

これに対して、羽柴秀吉は、長宗我部元親による四国統一を認めず、長宗我部元親に讃岐(香川県)と伊予(愛媛県)の2カ国を割譲し、羽柴秀吉の傘下に入るように求めた。

しかし、自分の力で四国を統一した長宗我部元親は、讃岐(香川県)の返還を拒否し、「伊予(愛媛県)1国の割譲になら応じる」との姿勢を貫いた。

このため、羽柴秀吉は四国征伐を決定し、軍師・黒田官兵衛に四国征伐の先鋒隊を命じたのである(黒田官兵衛の四国征伐)。

■黒田官兵衛の四国征伐
天正13年(1585年)5月、羽柴秀吉は四国征伐の直前になって病気になったため、自身の出陣を中止し、羽柴秀長を総大将に、羽柴秀次を副将に据えた四国征伐軍を四国へと送り込むことにした。

四国征伐は、羽柴秀長が6万の軍勢で阿波(徳島県)へと侵攻し、播磨の黒田官兵衛が2万3000の軍勢で讃岐(香川県)から侵攻する。そして、中国の毛利軍が4万の軍勢で伊予(愛媛県)へ侵攻し、3方面から四国へと侵攻する作戦であった。

天正13年(1585年)6月、四国征伐の先鋒を務める黒田官兵衛は蜂須賀正勝・宇喜多秀家らとともに、播磨・備前・淡路の兵2万3000の軍勢を率いて、屋島を経て讃岐(香川県)へと上陸した。

讃岐(香川県)へ上陸した黒田官兵衛が城を攻めると、城兵は簡単に降服し、黒田官兵衛は次々と城を落としていく。

一方、阿波の白地城(徳島県三好市)に主力部隊を置いた長宗我部元親は、香川県高松市に新築した植田城に長宗我部一門の戸波親武(へわ・ちかたけ)を入れ、植田城の守りを強固にしていた。

讃岐(香川県)の城兵が直ぐに降服するのは、黒田官兵衛を油断させるための計略だった。長宗我部元親は、守りを固めた植田城で黒田官兵衛を足止めにし、白地城(徳島県三好市)の主力部隊が黒田官兵衛を背後から攻撃する作戦だった。

しかし、快進撃を続ける黒田官兵衛は農民から植田城の状況を聞き、阿波の白地城(徳島県三好市)に長宗我部元親の主力部隊が駐留していることを知ると、長宗我部元親の策略を見抜き、植田城を攻撃せず、阿波(徳島県)へと転進したのである。

植田城の計略が見破られた長宗我部元親は、「宇喜多秀家や仙谷秀久を欺いて大いに勝利を得ようと思っていたが、黒田官兵衛などという古強者に見破られてしまったのは無念である」と肩を落とした。

さて、四国征伐の総大将・羽柴秀長と副将・羽柴秀次は、6万の軍を率いて淡路島を経て、阿波の土佐泊(徳島県鳴門市)へと上陸していた。

そして、羽柴秀長が木津城(徳島県鳴門市撫養町)を包囲していたとき、植田城を無視して阿波へと転進してきた黒田官兵衛が到着する。羽柴秀長は、黒田官兵衛の到着を大いに喜び、副将・羽柴秀次の軍師を頼んだ。

一方、籠城していた木津城の城主・東条関兵衛は、羽柴秀長に援軍が到着したことを知ると、木津城を捨てて土佐へと逃げ帰った。

すると、牛岐城(徳島県阿南市)を守る香宗我部親泰や、渭山城(徳島県徳島市)を守る吉田康俊も城を捨てて逃げだし、長宗我部側の防衛線はいとも簡単に崩れ去ったのである。

■岩倉城攻略
海岸線を占領した四国討伐軍は、阿波(徳島県)の内陸部へと侵攻を開始する。総大将・羽柴秀長は、兵を2手に分け、総大将の羽柴秀長は蜂須賀正勝を軍監(軍師)にして一宮城(徳島県徳島市)へ進軍した。

一方、副将の羽柴秀次は黒田官兵衛を軍監(軍師)にして岩倉城(徳島県美馬市)へと進軍させた。

岩倉城(徳島県美馬市)は、阿波で一番の要害のうえ、長宗我部一族一でも武勇で名高い比江山親興(ひえやま・ちかおき)が5000の兵で守っていた。

羽柴秀次が黒田官兵衛に「どのように攻める」と尋ねると、黒田官兵衛は「岩倉城は要害です。力攻めにしてはいけません。謀をもって敵の心を屈し、降服させるべきです」進言した。

羽柴秀次は黒田官兵衛の策を羽柴秀吉に報告すると、羽柴秀吉から「謀は大小に関わらず、黒田官兵衛に任せよ」という答えが返ってきたため、羽柴秀次は黒田官兵衛に岩倉城攻めを任せた。

すると、黒田官兵衛は、岩倉城(徳島県美馬市)の周りに高い櫓を組んで、櫓から城の中へ、1日3度、鉄砲を打ち込んだ。さらに、黒田官兵衛は大勢で岩倉城を取り囲み、深夜になると、山の中から鬨の声を上げさせた。

数日もすると、岩倉城の兵士は精神的に追い詰められてきたので、黒田官兵衛は頃合いを見計らって岩倉城の守将・比江山親興に降伏を勧告すると、比江山親興もついに降伏し、兵を率いて土佐へと帰った。

こうして、黒田官兵衛は兵を失うこと無く、阿波一の要害・岩倉城をわずか19日で攻略し、長宗我部元親が守る阿波の白地城(徳島県三好市)へと迫ったのである。

一方、一宮城(徳島県徳島市)へと進軍した羽柴秀長も、一宮城の谷忠澄を降服させると、長宗我部元親が守る阿波の白地城(徳島県三好市)へと迫った。

対する長宗我部元親は、小早川隆景・吉川元長に伊予(愛媛県)を平定され、阿波(徳島県)の大半も羽柴秀長に平定されたが、徹底抗戦の構えを貫いていた。

しかし、家臣一同が降伏を主張するため、長宗我部元親は天正13年(1585年)8月、羽柴秀吉に降伏する。長宗我部元親は阿波・伊予・讃岐の3国が没収されたが、土佐(高知県)1国が安堵された。

こうして、軍師・黒田官兵衛の活躍により、四国は2ヶ月で平定されたのであった。

四国征伐の論功で、阿波(徳島県)1国は蜂須賀家政に与えられた。讃岐(香川県)のほぼ1国が仙石秀久に与えられ、讃岐の一部は十河存保に与えられた。

伊予(愛媛県)のほぼ1国が小早川隆景に与えられ、伊予の一部は安国寺恵瓊などに与えられた。

四国征伐の論功は九州征伐の布石だったため、黒田官兵衛は軍師として四国征伐で大活躍したが、四国征伐の論功では領地の加増は無かった。

黒田官兵衛が四国を平定したのは、天正13年(1585年)8月、黒田官兵衛が40歳のことであった。

なお、天正13年(1585年)8月22日、黒田官兵衛の父・黒田職隆が死んだ。黒田職隆は享年62歳であった。

■羽柴秀吉の関白就任
天正13年(1585年)7月、黒田官兵衛が四国征伐をしている間に、羽柴秀吉は公家・近衛前久の養子となり、藤原秀吉へと名を改めた後、朝廷より関白に任命され、豊臣秀吉と改名した。

元々、朝廷は羽柴秀吉を右大臣に任命しようとしていたのだが、明智光秀に討たれた織田信長が右大臣だったことから、羽柴秀吉は右大臣を嫌い、左大臣を要求した。

羽柴秀吉の左大臣の要求に驚いたのが、現職の左大臣・近衛信輔だった。羽柴秀吉が左大臣に就任するためには、近衛信輔が辞任しなければならない。

左大臣・近衛信輔は数年後に関白に就任する予定だったが、官位無しの状態から関白に就任することを嫌い、現職の関白・二条昭実に「関白の座を今すぐに譲れ」と言い出した。

現職の関白・二条昭実は関白に就任して日が浅いため、「そんなに早く関白を辞任した例は無い」として、左大臣・近衛信輔の要求を拒否した。

関白・二条昭実と左大臣・近衛信輔の2人はそれぞれに持論を主張し、関白の座を争う事態に発展。二条昭実と近衛信輔との争いは泥沼化し、朝廷を混乱させた(関白相論)。

すると、公家の菊亭晴季が羽柴秀吉に、関白相論の収拾を口実に関白へ就任するように助言した。

菊亭晴季の助言を受けて事態の収拾に乗り出した羽柴秀吉は、左大臣・近衛信輔の父・近衛前久に、養子の受け入れと関白就任とを要求した。

近衛前久は羽柴秀吉に逆らうことが出来ず、数年後に関白の座を息子・近衛信輔へ譲ることを条件に、羽柴秀吉を養子に受け入れ、羽柴秀吉の関白就任を認めた。

こうして、羽柴秀吉は、近衛前久の養子となり、「藤原秀吉」へと改名した後、関白に就任し、史上初の武家関白が誕生する。その後、羽柴秀吉は「豊臣」性を賜り、豊臣秀吉と名前を改め、豊臣政権を樹立したのである。

(注釈:近衛前久は藤原氏の流れをくむため、羽柴秀吉は、近衛前久の養子となり、藤原性へ改名した。)

なお、豊臣秀吉は、関白相論を収拾するための一時的な関白であり、数年後に近衛信輔へ関白を譲る約束であったが、その後、関東の北条家を倒して天下を統一した豊臣秀吉は、天正19年(1591年)に養子の豊臣秀次に関白を譲り、近衛前久との約束を反故にしている。

羽柴秀吉が関白に就任したのは天正13年(1585年)7月、黒田官兵衛が40歳の時の出来事であった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ播磨編「黒田官兵衛の九州征伐のあらすじとネタバレ」へ続く。