黒田官兵衛と生駒親正の高松城の縄張り

V6の岡田准一が主演するNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ豊前編「黒田官兵衛と生駒親正の高松城の縄張りのあらすじとネタバレ」です。

このページは「軍師・黒田官兵衛と城井鎮房が和睦したあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■黒田官兵衛が豊前国人一揆を鎮圧
天正15年(1587年)10月、豊前国の豪族・城井鎮房が、豊前6郡を拝領した黒田官兵衛に抵抗して一揆を起こしたが、黒田官兵衛は中国の毛利勢の加勢を得て、天正15年(1587年)12月下旬までに一揆勢を撃破し、残る一揆勢は城井鎮房となった。

天正16年(1588年)1月、兵は逃げすようになり、窮地に屈した城井鎮房は、毛利の外交僧・安国寺恵瓊を通じて黒田官兵衛に降伏を願い出た。

黒田官兵衛は「城井鎮房の息子・城井朝房と城井鎮房の娘・鶴姫の2人を人質に差し出すこと」を条件に、城井鎮房の領土を安堵する和議を認め、天正16年(1588年)1月末に豊前の一揆は完全に終結した。

■黒田官兵衛の豊前の戦後処理
天正16年(1588年)、豊前国で起きた一揆を鎮圧した黒田官兵衛は、馬ヶ岳城(福岡県行橋市)から中津城(大分県中津市)へと居城を移した。

一方、城井谷城の城主・城井鎮房は黒田官兵衛と和睦して黒田官兵衛の傘下に降ったものの、城井谷に籠もったままで中津城へ挨拶にも来ず、不穏な動きを続けていた。

他方、肥後(熊本県)の一揆は鎮圧したが、豊臣秀吉は加藤清正・浅野長政・小西行長などを派遣し、肥後の警備を厳重にしていた。

そのようななか、天正16年(1588年)2月、豊臣秀吉は、黒田官兵衛に肥後(熊本県)へ行き、浅野長政らと協議して肥後の戦後処理に当たるように命じた。

黒田官兵衛は天正16年2月から天正16年5月ごろまで肥後(熊本県)の戦後処理にあたり、肥後の戦後処理を終えると、豊前(福岡県東部)に戻って自国の戦後処理を行い、指出検地によって豊前の石高を12万石と決定した。

このとき、黒田官兵衛は石高に捕らわれず、良田を家臣に与え、悪田を領主のものとしたため、家臣は黒田官兵衛に感謝した。

■黒田官兵衛と生駒親正の高松城
さて、豊臣秀吉は1587年(天正15年)9月に京都で、権力を象徴する聚楽第(じゅらくだい)を完成させており、九州征伐から凱旋した豊臣秀吉は聚楽第で政務を取り仕切っていた。

一揆を鎮圧した黒田官兵衛は、豊前の戦後処理を終えると、豊臣秀吉に戦後処理の報告をするため、京都へと向かう。

その途中で黒田官兵衛が讃岐の丸亀(香川県丸亀市)に立ち寄ると、讃岐の領主・生駒親正が黒田官兵衛に「高松(香川県高松市)に居城を築こうと思うのだが、未だに決断できない」と相談した。

黒田官兵衛が高松の地形を見て、「最も適切な場所である」と答えると、生駒親正は喜んだが、「近くに石清尾山があるのだが、石清尾山は城にとって不利にならないだろうか」と心配した。

すると、黒田官兵衛は「高松は、一方が海(瀬戸内海)に面しているので、敵が攻めてくるのであれば、必ず石清尾山の方向だ。石清尾山は道が狭いので、一度に大軍が通れない。これは敵に不利で、味方には有利になる」と答えた。

これを聞いた讃岐領主の生駒親正は、安心して高松に居城を築くことを決意した。こうして、黒田官兵衛の縄張り(設計)と助言によって築かれたのが、高松城(別名は玉藻城)である。

讃岐の高松城は、黒田官兵衛が水攻めにした備中の高松城と区別するため、地名を付けて「備中高松城」「讃岐高松城」と呼ぶことがある。

黒田官兵衛が築いた中津城(大分県中津市)、生駒親正が築いた高松城(香川県高松市)、藤堂高虎が築いた今治城(愛媛県今治市)の3城は海に面しており、この3城を「日本3大海城」という。

なお、黒田官兵衛は、毛利輝元の広島城や豊臣秀吉の大阪城なども縄張り(設計)を担当しており、加藤清正や藤堂高虎と並ぶ城作りの名人として知られる。

(注釈:毛利輝元は広島城を設計した黒田官兵衛に激怒したエピソードは「黒田官兵衛が設計した広島城に毛利輝元が激怒」をご覧ください。)

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ豊前編「黒田官兵衛の隠居を決意した理由のあらすじとネタバレ」へ続く。

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