黒田長政が城井鎮房を暗殺-合元寺の赤壁伝説

V6の岡田准一が主演するNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ豊前編「黒田長政が城井鎮房を暗殺-合元寺の赤壁伝説のあらすじとネタバレ」です。

このページは「毛利輝元が軍師・黒田官兵衛に激怒のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■城井鎮房の暗殺
天正17年(1589年)、豊前の豪族・城井鎮房(きい-しげふさ)は人質を差し出して黒田官兵衛に降ったものの、城井谷城に籠もったままで、挨拶にも来ず、不穏な動きを続けていた。

(注釈:城井鎮房の暗殺は、天正17年説と天正16年説がある。天正16年も時代がずれているだけで、内容は全く同じ。)

黒田官兵衛は豊臣秀吉に城井鎮房と城井一族の処刑を命じられて豊前に帰国したが、城井谷は10万の兵に値するという要害で、黒田官兵衛といえども、城井谷城を攻め落とすことは難しかった。

そのようななか、天正17年(1589年)3月、黒田官兵衛は、豊臣秀吉から肥後(熊本県)の諸事置目などを申しつけられたため、人質・城井朝房を連れて肥後(熊本県)へと向かった。

すると、天正17年(1589年)4月20日、城井鎮房は黒田長政への挨拶を理由に、手勢200人を従え、突如として中津へとやって来た。

(注釈:黒田官兵衛が城井鎮房を誘き出すために肥後へ行ったという説や、黒田長政が城井鎮房を執拗に招いたという説もあるが、詳細は分からない。)

城井鎮房の訪問の知らせを受けた黒田長政は、「本当に挨拶なら、日時を打ち合わせて、父上が居る時に来るはず。父上の留守に案内もなく押しかけてくるとは、ますます無礼である」と言い、家臣を集めると「今日の酌には吉田又助が出ろ。城井鎮房を誅する合図は『肴』だ。肴を請えば、野村太郎兵が肴を運んできて、城井鎮房に1の太刀を打つべし。我は2の太刀を打つ」と命じた。

しかし、戦争で負傷して体が不自由だった家臣・吉田又助は「晩酌を仰せつかるのは誠に面目です。しかし、私は昨年、日向で左の膝口を切られ、命は助かったものの、陣中で止血も出来なかったため、体が弱っております。ただいま、少々の歩行は出来ますが、すねにも力が入らず、手にも力が入りません。大事な仕事を辞退するのは残念ですが、体の達者な者に仰せつけください」と辞退した。

すると、黒田長政は「汝の力が未だに戻らないのは目の前の事である。今夜の酌に手足の強さは必要ない。ただ心を静かにして動かざる事を良しとする。吉田又助に酌を任せること、辞退には及ばない」と言い、吉田又助に酌を命じた。

(注釈:黒田家の家臣・吉田又助の生涯については、「吉田六郎太夫(吉田長利)と吉田又助(吉田重成)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

さて、城井鎮房は城下町にある合元寺(ごうがんじ)に従者を待機させ、数人の側近を連れて、中津城を訪れた。

黒田長政は、城井鎮房の側近に城外で待つように指示し、城井鎮房だけを城内へ招き入れて宴席をもうけた。城井鎮房は、黒田長政と筋違いに2間(3.6m)ほど離れた腰障子の方に座った。

城井鎮房は身の丈6尺(約180cm)はある大男で、2尺(約60cm)の刀を腰に差し、2尺半(約84cm)の刀を後ろの壁に立てかけ、全く黒田長政を敬う様子も無く、降人とは思えぬ態度だった。

黒田長政は怒りの色を隠して城井鎮房に杯盃を賜るが、城井鎮房は黒田長政に平伏することもなく、酒を飲む時も常に右手は刀に置いており、とうてい降伏した武将とは思えなかったため、黒田長政は計画通りに城井鎮房の暗殺計画を実行に移した。

黒田長政が吉田又助に「酒を出せ」と命じると、吉田又助は城井鎮房に溢れるほど酒を注いで溢し、その隙に黒田長政の側に刀を置き、黒田長政と城井鎮房との間に座った。

次に黒田長政は「肴を持って参れ」と野村太郎兵衛に命じたが、隣の部屋で待機していた野村太郎兵衛には聞こえなかったのか、野村太郎兵衛は動かなかった。

黒田長政がもう一度「太郎兵衛、肴」と命じると、野村太郎兵衛は驚くように動き出し、三方(膳)に肴を載せて運んでくる。

そして、野村太郎兵衛は城井鎮房の前に歩み出ると、城井鎮房に三方を投げつけ、城井鎮房の左の額から目の下まで切りつけた。

城井鎮房は心得たりとして左手に持っていた盃を捨て、刀を半分ほど抜いて立ち上がろうとすると、黒田長政は近くに置いてあった刀を取り、城井鎮房を切りつけた。城井鎮房は左肩から右横腹までを切りつけられたため、さすがの城井鎮房も倒れ伏した。

すると、野村太郎兵衛が刀を置き、片手を突いて「日頃の御本望にそうろう。今、一太刀をお加えください」と懇願すると、黒田長政はうつ伏せになった城井鎮房を背後から切りつけ、腰の所で城井鎮房の体を切断した。

(注釈:城井鎮房の生涯については「城井鎮房(きい・しげふさ)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

こうして、黒田長政は城井鎮房を殺すと、家臣に「城井鎮房の家人を殺せ」と命じる。家臣・吉田又助は手はず通り、早鐘を打ち鳴らし、城内で待機していた部下に合図を送る。

城外に待機していた城井鎮房の家臣は、城井鎮房が殺されたことを知り、城内に討ち入ろうとしたが、黒田長政の家臣に大勢が討ち取られ、残りの城井鎮房の家臣は城外へと追い出された。

このとき、黒田家の家臣・野口藤九郎が城井鎮房の家臣・数人を討ち取った。黒田家の家臣・益田興介は、玄関にあった番槍を取り、城井鎮房の家臣の大勢を場外へと追い出した。

黒田家の家臣・大野九郎左衛門は厩舎(馬屋)に隠れており、槍で敵兵を3人突き殺した。また、黒田宇兵衛のほか大勢の武将が、城井鎮房の家臣を討って手柄をあげた。

しかし、黒田側も内海甚左衛門が討ち死にしたほか、大勢の者が負傷し、大きな被害を受けた。

その後、黒田家の鉄砲隊が大手門に集まり、攻撃してくる城井軍を退けると、城井軍は城下にある合元寺へと逃げ帰った。

■合元寺の赤壁伝説
黒田長政は城井鎮房を暗殺すると、手勢を率いて中津城の城下町にある合元寺(ごうがんじ)を襲撃し、合元寺で待機していた城井鎮房の手勢200人をことごとく討ち取った。

合元寺での戦いは悲惨を極め、合元寺の白壁は血で真っ赤に染まり、合元寺には今でも刀傷が残っているという。

その後、合元寺は壁を白く塗り直したのだが、血の跡がにじみ出てきた。何度、白く塗り直しても、血の跡がにじみ出てくるため、合元寺は壁を赤くしたと伝わる(合元寺の赤壁伝説)。

■黒田長政が城井一族を処刑
天正17年(1589年)4月22日、中津城へ来た城井鎮房を暗殺し、合元寺で城井鎮房の従者をことごとく討ち取った黒田長政は、兵を整えて城井鎮房の本拠地・城井谷を攻めた。

城井鎮房の家臣は必死の抵抗を試みたが、黒田長政はこれを突破し、城井鎮房の屋敷を焼き払った。

城井鎮房の父・城井長房は豊後へと逃げようとしたが、黒田長政の追っ手に見つかって殺され、城井鎮房の父子一族13人が捕らえられた。

こうして、黒田長政は城井鎮房の父子一族13人を捕らえると、その日のうちに中津へ戻り、城井一族13人をその日のうちに中津川で磔にした。

一方、天正17年(1589年)4月23日、城井鎮房を暗殺に成功したという知らせが肥後(熊本県)へ出張中の黒田官兵衛に届くと、加藤清正と黒田官兵衛は人質の城井朝房の宿に火を付けた。

城井朝房は、黒田官兵衛に呪いの言葉を残しながら、従者と共に切腹して死んだという。

他方、黒田家に人質として出されていた城井鎮房の娘・鶴姫は、投獄されていた。このとき、鶴姫は牢獄で磔の杭を打ち込む音を聞き、「なかなかに、きいて果てなん、唐衣、我がために織る、はたものの音」という辞世の句を詠んだ。

(注釈:辞世の句は、「きいて果てなん」が「聞いて」と「城井て」とがかかっており、「自分を磔にする杭を打ち込む音を聞き、城井が滅亡するのを待つ」という意味にある)

鶴姫の辞世の句を聞いた黒田官兵衛が豊臣秀吉に鶴姫の助命を願い出ると、豊臣秀吉は鶴姫を哀れんで、助命を認めた。釈放された鶴姫は、尼となって城井谷の山奥に住み、城井一族の冥福を祈りながら天命を全うした。

(注釈:鶴姫は磔にされ、黒田家に処刑されたという伝承があるが、鶴姫が処刑されるエピソードは創作である。)

こうして、城井家(豊前宇都宮氏)は黒田官兵衛・黒田長政によって滅ぼされた。城井鎮房を慕っていた城井谷の住人は、黒田家を恨み続け、平成の時代になっても城井谷の住人は黒田官兵衛を嫌うという。

■城井氏の復興運動
さて、黒田官兵衛・黒田長政親子によって城井氏(豊前宇都宮氏)は滅ぼされたが、城井朝房の妻・竜子は落城したとき、部下に助けられて宝珠山へと落ち延び、実家の秋月家に戻った。

この妻・竜子が城井朝房の子供を妊娠していたとされ、妻・竜子が城井朝房の子供・城井朝末を産み、城井朝房の血をつないだという。

江戸時代に入ると、城井朝房の子孫が城井氏を大名に復帰させるため、城井氏(豊前宇都宮氏)復興運動を起こしたが、大名に復帰する事は出来ず、子孫も完全に滅んだという。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ豊前編「黒田官兵衛が黒田長政に家督を譲る理由のあらすじとネタバレ」へ続く。