黒田官兵衛が黒田長政に家督を譲った理由-黒田官兵衛の茶道

V6の岡田准一が主演するNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ豊前編「黒田官兵衛が黒田長政に家督を譲った理由」です。

このページは「黒田長政が城井鎮房を暗殺-合元寺の赤壁伝説」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■黒田長政が家督を相続
天正15年(1587年)黒田官兵衛は九州征伐の論功行賞で豊前(福岡県東部)6郡を拝領したが、400年に渡って豊前を支配していた城井谷城の城主・城井鎮房が豊臣秀吉の領地替えに反発して一揆を起こした。

豊前で起きた一揆は手強く直ぐには鎮圧出来なかったが、黒田官兵衛は中国地方の毛利勢の手助けを得て一揆勢を撃破し、一揆を鎮圧した。

強敵の城井鎮房は黒田官兵衛に降ったが、城井谷城に籠もったまま、不穏な動きを続け、黒田官兵衛が豊前を留守にしたとき、挨拶を口実に手勢を率いて中津城を訪れた。

中津城で留守をしていた黒田長政は、城井鎮房を中津城に入れ、宴席で城井鎮房を殺した。そして、黒田長政は城井鎮房の城を攻め、城井一族を滅ぼし、豊前6郡を完全に平定したのであった。

(注釈:城井鎮房の生涯のあらすじとネタバレは「城井鎮房(きい・しげふさ)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

天正17年(1589年)5月、豊前(福岡県東部)6郡の情勢が落ち着くと、黒田官兵衛は嫡男の黒田長政に家督を譲った。このとき、黒田官兵衛は44歳で、黒田長政は22歳であった。

豊臣秀吉は常々、「まことに怖いのは、徳川と黒田である。徳川は大人しいが、黒田のかさ頭には心を許すことができない」と言っており、黒田官兵衛はまだ44歳であったが、豊臣秀吉に睨まれないために、早々と家督を黒田長政に譲って隠居したのである。

(注釈:黒田官兵衛は黒田長政に家督を譲った年に出家して「如水軒」を名乗ったとされるが、黒田官兵衛が出家して「如水」を名乗るのは朝鮮出兵の時である。)

ただ、豊臣秀吉は黒田官兵衛の才能を惜しんで完全な隠居は許さず、御伽衆(相談役)を命じており、黒田官兵衛は豊前の政治を黒田長政に託すと、聚楽第の猪熊邸へと移り、豊臣秀吉の御伽衆(相談役)を務めた。

なお、聚楽第の猪熊邸があった場所は、黒田官兵衛にちなんで「如水町」や「小寺町」と呼ばれるようになった。(注釈:黒田官兵衛は姫路時代、御着城の城主・小寺政職の家老で、小寺の姓を賜り、「小寺官兵衛」を名乗っていた。)

一方、黒田官兵衛から家督を相続した黒田長政は、天正17年(1589年)6月17日、従五位下に叙じ、甲斐守に任ぜられている。

■黒田官兵衛と茶道
さて、黒田官兵衛は、嫡男・黒田長政に豊前の事を任せると、聚楽第の猪熊邸へと移り、豊臣秀吉の御伽衆(相談役)を務めた。

黒田官兵衛は、「刀も帯びずに個室に籠もるのは不用心」という理由で茶道を嫌っていたが、ある日、豊臣秀吉から茶会に招かれたため、茶会に参加した。

ところが、黒田官兵衛が茶室に入ると、黒田官兵衛の他に客人は無く、豊臣秀吉の話は軍議の事ばかりであった。

軍議が終わると、豊臣秀吉は微笑しながら「これが茶の良いとこだ。お主と茶室以外の場所で膝をつき合わせれば、必ず噂になってしまう」と話した。

豊臣秀吉は、黒田官兵衛と密会をすると噂が立つため、茶会を口実に黒田官兵衛と会い、軍議を行っていたのだ。茶道を嫌っていた黒田官兵衛は、これ以降、茶道に関する考えを改め、茶道にも取り組むようになった。

黒田官兵衛が聚楽第に構えた猪熊邸は、千利休の屋敷の隣にあり、黒田官兵衛は千利休と親交を深め、千利休から茶道を学ぶことになる。

ところで、豊臣秀吉には、黒田官兵衛を茶会に招いて軍議を行わなければならない理由があった。

日本全国のほとんどの大名が豊臣秀吉に忠誠を誓い、豊臣秀吉による日本統一を目前にしていたが、未だに関東の大名・北条氏直と米沢(山形県)の大名・伊達政宗は豊臣秀吉に従属していなかった。

そこで、豊臣秀吉は茶会と称して黒田官兵衛と軍議を行い、ついに北条征伐(小田原征伐)を決意するのである。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ豊前編「黒田官兵衛の小田原征伐のあらすじとネタバレ」へ続く。

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