朝鮮出兵(唐入り)の征明嚮導と仮道入明

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「豊臣秀吉の朝鮮出兵(唐入り)の征明嚮導と仮道入明のあらすじとネタバレ」です。

このページは「豊臣秀吉の朝鮮出兵(唐入り)のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■黒田官兵衛と朝鮮出兵(唐入り)
天正18年(1590年)8月20日、豊臣秀吉は、関東と奥州(東北地方)を平定して京都へ戻る途中に駿府に立ち寄り、毛利吉成(毛利勝信)と小西行長に、朝鮮出兵の準備を命じた。

毛利吉成らが朝鮮出兵の拠点を肥前の名護屋(佐賀県唐津市鎮西町名護屋)に決定すると、豊臣秀吉は黒田官兵衛(黒田如水)に名護屋城の縄張を命じ、黒田長政に名護屋城普請の総奉行を命じた。

そして、九州各地の大名に建設を分担させ、天正19年(1591年)10月から、名護屋城の建設が始まった。工事は迅速に行われ、名護屋城は天正20年(1592年)4月にほぼ完成する。

■太閤・豊臣秀吉の誕生
天正19年(1591年)12月28日、豊臣秀吉は朝鮮出兵に専念するため、養子・豊臣秀次に関白の座を譲った。

豊臣秀吉は四国征伐の後、関白・二条昭実と左大臣・近衛信輔の2人が関白の座を争った「関白相論」を解決するという口実で、関白に就任した。

このとき、豊臣秀吉は数年後に左大臣・近衛信輔へ関白を譲ると約束していたが、豊臣秀吉はこの約束を反故にして、養子・豊臣秀次に関白を譲った。

しかし、もはや、朝廷と言えど、天下を統一した豊臣秀吉に逆らうことは出来なかった。

こうして、関白を辞した豊臣秀吉は「太閤下」となる。「太閤下」とは、関白を退いた者を表す称号だが、現在は省略して「太閤」と呼ぶび、豊臣秀吉を指す事が多い。

さて、太閤となった豊臣秀吉は、諸大名に「自ら大軍を率いて朝鮮に渡り、朝鮮の軍勢を先鋒隊として明国(中国)に攻め入る。朝鮮国王が命令を拒んだときは、朝鮮軍を討ち滅ぼして、明国へと侵攻する」と宣言したのである(征明嚮導の宣言)。

(注釈:このとき、豊臣秀吉は、李氏朝鮮が正使を送ってきたため、李氏朝鮮は日本に降伏したと考えていた。)

一方、関白となった豊臣秀次は、京都にある聚楽第に入り、日本の政務に専念することになる。

■征明嚮導と仮道入明
さて、豊臣秀吉の使者として朝鮮半島へと渡った対馬の柳川調信らは、「征明嚮導(せいみんきょうどう)」を「仮道入明(かどうにゅうみん)」へと条件を緩和し、李氏朝鮮に「仮道入明」を求めた。

征明嚮導は「明へ攻め入るときに先導を務めよ」という意味で、仮道入明は「明へ攻め入る際に道を貸せ」という意味である。

柳川調信らは大幅に条件を緩和したが、李氏朝鮮は豊臣秀吉が軍隊を派兵してくるとは考えておらず、仮道入明を拒否した。

このとき、李氏朝鮮は政権交代の影響で、日本に派遣した朝鮮通信使の副使・金誠一(キム-ソンイル)の「日本は攻めてこない」という報告を採用していたため、豊臣秀吉が軍隊を送ってくるとは思っていなかったのである。

これに困った対馬の大名・宗義調は、自ら李氏朝鮮に赴いて「日本と李氏朝鮮の関係が悪化する」と説得したが、豊臣秀吉が攻めてくるとは考えていなかった李氏朝鮮は絶対に「仮道入明」を認めなかった。

その結果、李氏朝鮮の説得を諦めた宗義調は、上洛して豊臣秀吉に朝鮮半島の地図を献上したのであった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「小早川秀秋が関ヶ原の合戦で裏切った理由は黒田官兵衛のあらすじとネタバレ」へ続く。

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