吉田又助は大河の見積もり上手

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「吉田又助は大河の見積もり上手のあらすじとネタバレ」です。

このページは「黒田官兵衛の朝鮮出兵のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■平壌城の落城
日本は李氏朝鮮の首都・漢城(ハンソン)を占領したが、李氏朝鮮王は漢城を逃れて未だに健在だった。豊臣秀吉は李氏朝鮮王を服従させるため、日本軍に李氏朝鮮王の確保を厳命していた。

日本軍の1番隊・小西行長は、朝鮮八道のうち、朝鮮半島北部にある黄国(平安道=ピョンアンド)の征伐を担当していた。

黄国(平安道)には、李氏朝鮮王が逃げ込んだ平壌(ピョンヤン)があり、1番隊・小西行長は李氏朝鮮王が平壌城に居るという情報を得ると、平壌城を目指していたが、平壌城の南には大同江(だいどうこう)という大河があった。

大同江は日本には無いほど大きな河なので、船が無ければ渡れず、船を調達出来ない1番隊・小西行長は数日の足止めを食らった。

そのころ、3番隊・黒田長政は朝鮮半島北西部の黄海道(ファンヘド)を征伐に当たっていたが、1番隊・小西行長から、朝鮮王が平壌城に居るという知らせを受けたため、黄海道の征伐を中断して、1番隊・小西行長に援軍に向かった。

3番隊・黒田長政の先鋒は道に迷って、黒田長政の旗本とはぐれ、文禄元年(1592年)6月8日に1番隊・小西行長と合流した。

小西行長は平壌城に居る李氏朝鮮軍の李徳馨(イ・ドクヒョン)に「仮道入明(かどうにゅうみん)」を求め、柳川調信と景轍玄蘇の2人を使者として送ったが、李氏朝鮮は仮道入明を拒否した。

しかし、大同江の向こう岸に駐留する日本軍を目の当たりにした李氏朝鮮王は、文禄元年(1592年)6月11日に平壌城(ピョンヤン城)から逃げ出してしまう。

李氏朝鮮王が逃げ出し、絶好の攻め時が訪れたが、李氏朝鮮軍が周辺の船を全て調達していたため、船を調達出来ない1番隊・小西行長は大同江を渡ることが出来ず、手も足も出ない状態だった。

そこで、平壌城に残っていた李氏朝鮮軍の大将・商彦は、文禄元年(1592年)6月14日夜、密かに手勢を率いて大同江を渡り、1番隊・宗義智の部隊に奇襲攻撃をかけたのである。

■吉田又助は大河の見積もり上手
緑国(黄海道)の征伐を担当していた3番隊・黒田長政の本陣は、先手とはぐれてしまい、1番隊・小西行長に合流したのは文禄元年(1592年)6月13日のことであった。

1番隊・小西行長は船を調達できないため、平壌城の南を流れる大同江(だいどうこう)を未だに渡ることが出来なかった。このため、1番隊・小西行長は、李氏朝鮮軍も大同江を渡ってこないだろうと思い、油断していた。

黒田長政は大同江が日本には存在しないほどの大河だったので、家臣に大同江の川幅を見積もらせると、7町(763m)と言う者もあり、13町(1.4km)と言う者もあり、黒田長政は大同江の川幅を決めかねた。

そこで、黒田長政は家臣の吉田六郎太夫・吉田又助の親子に「今後の為に記録を残しておかなければならない。なんとしても大同江の実際の幅を図れ」と命じた。

吉田六郎太夫は地元の者に大同江の川幅を尋ねたが、平壌の町を知っている者でも、大同江の川幅を知る者は居なかった。

吉田又助が大同江へ行くと、向こう岸に朝鮮人3人が居り、こちらの様子を偵察していた。

すると、吉田又助は「朝鮮人は背が高いといえど、我が家臣・小柳権七は大男なので、朝鮮人に劣らない」と言い、小柳権七を呼び寄せ、土手を走らせた。

そして、土手を走る小柳権七が、向こう岸に居る朝鮮人と同じ大きさになると、合図を送って小柳権七を止まらせ、吉田又助から小柳権七までの距離を測り、大同江の川幅を8町5段(84m)と見積もり、黒田長政に報告した。

吉田又助から報告を受けた黒田長政は「汝は見積もり上手なり」と感心し、以降は吉田六郎太夫・吉田又助の親子に川幅の見積もりを命じるようになった。

吉田又助の生涯については「吉田六郎太夫(吉田長利)と吉田又助(吉田重成)の生涯」をご覧ください。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「黒田長政と大同江の戦いと李應理(李応理)のあらすじとネタバレ」へ続く。

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