黒田官兵衛を馬鹿にする小西行長

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「黒田長政と平壌城の戦いと郭再祐のあらすじとネタバレ」です。

このページは「黒田長政と平壌城の戦いと郭再祐のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■明が李氏朝鮮の救済に乗り出す
文禄元年(1592年)4月に朝鮮半島へ上陸した日本軍は、5月3日に李氏朝鮮の首都・漢城(ハンソン=現在のソウル)を占領した、

さらに、文禄元年(1592年)6月15日、1番隊・小西行長と3番隊・黒田長政とが、平壌城(ピョンヤン城)に無血入城を果たした。

一方、文禄元年(1592年)6月11日に平壌城を逃げ出した李氏朝鮮王は、明(中国)に助けを求めた。

中国は冊封体制をとっており、周辺諸国に「王」の称号を与えて、周辺諸国を従属させていた。李氏朝鮮も明(中国)の冊封体制に入り、明の冊封国(属国)となっていた。

明(中国)は属国の李氏朝鮮を助ける義務があるのだが、明(中国)は「李氏朝鮮は日本軍の手先となって明国に攻めるつもりではないか」と警戒して、李氏朝鮮の事を信用しておらず、李氏朝鮮の救済に後ろ向きだった。

しかし、日本軍が平壌へと迫ったという報告を受けた明(中国)は、ようやく、李氏朝鮮の救済に乗り出し、祖承訓(そ・しょうくん)に5000の兵を与えて李氏朝鮮へと派遣したのである。

こうして、明軍の大将・祖承訓が李氏朝鮮の救済に乗り出したが、明軍(中国軍)は李氏朝鮮の領内を荒らすため、朝鮮人は乱暴や略奪を恐れて、山の中に逃げ、町は無人になったという。

文禄元年(1592年)7月15日、明の祖承訓(そ・しょうくん)が平壌城を奪還するため、平壌城を攻めるが、1番隊の小西行長に大敗してしまう。そして、大敗した祖承訓は、敗戦の責任を李氏朝鮮に押しつけ、明(中国)へと逃げ帰った。

■軍師・黒田官兵衛をあざ笑う小西行長
1番隊・小西行長が平壌(ピョンヤン)に侵攻した明(中国)の祖承訓(そ・しょうん)を撃退したが、明は祖承訓の敗北を受け、明の大軍を朝鮮半島に派遣するという噂が伝わってきた。

そこで、文禄元年(1592年)8月10日、日本軍総大将の宇喜多秀家は、石田三成・増田長盛・大谷吉継・黒田官兵衛・黒田長政・小西行長・島津義弘・小早川隆景らを漢城(ハンソン)に集め、明軍(中国軍)への対応を協議した。

軍師・黒田官兵衛は「漢城(ハンソン)を総大将・宇喜多秀家の居城とし、漢城から1日の場所に枝城を築いて、各武将を配置し、明軍(中国軍)が攻めてきても撃退できるように防備を固めるべきだ。その後、北へ攻め入れば良い」と意見した。

しかし、明軍を追い返した西行長は「朝鮮人を大勢打ち殺したれば、敵は逃げ去り、もはや戦う気力も無い。いくら明(中国)が義に厚いと言えど、明王が朝鮮人のために、数万の命を賭けて、朝鮮に援軍を出すとは思えない。それに、明と朝鮮の国境には鴨緑江という大河があり、兵や食料の輸送が困難だ。明国へ攻め入る方法は知っているが、敵の居ない所に城を築く方法など知らない」と、黒田官兵衛の意見を馬鹿にした。

すると、黒田官兵衛は「勇敢な意見だが、奥地に進んで明の大軍に四方を包囲されたらどうする。諺にも『用心は臆病にせよ』とある。平壌から引き上げて、漢城の近くの城を居城にしなさい」と忠告した。

そこで、小早川隆景が「黒田官兵衛の言う事はもっともだ。朝鮮人が言うに、明国の部隊が来襲するのは簡単だ。明国の東西に海路があり、食料輸送が出来る。いかに鴨緑江が大河といえど、船を使えば人馬の輸送は簡単である。黒田官兵衛の意見に従って、漢城の備えをするのが上策である」と黒田官兵衛の意見を支持した。

しかし、小西行長は「明の国境まで入って、明軍が出てきても恐るるに足らず。我が手勢だけで明国に攻め入るので、諸大名は後から来れば良かろう」と言って黒田官兵衛をあざ笑い、同心しなかった。

結局、実権のある朝鮮軍事奉行の石田三成らが、小西行長の意見を支持しため、小西行長は平壌城へと戻り、平壌城から北へと兵を進めた。

黒田官兵衛は豊臣秀吉の名代として朝鮮半島に渡っていたが、黒田官兵衛は相談役程度の立場だったため、何の実権も無かった。

朝鮮半島に駐留する日本軍の指揮権は朝鮮軍事奉行の石田三成・増田長盛・大谷吉継にあり、黒田官兵衛の意見はことごとく無視されていた。

朝鮮軍事奉行の石田三成らが来てからは、石田三成らが日本軍の方針を決めており、実権の無い黒田官兵衛はないがしろにされていた。

そこで、黒田官兵衛は軍議の後、日本軍の総大将・宇喜多秀家に「漢城と平壌城の連絡網を堅くする必要がある」と直訴する。

総大将・宇喜多秀家は黒田官兵衛の意見を受け入れ、漢城と平壌城の間、50里(約196km)に13個の繋ぎの城を築かせ、諸将を繋ぎ城に入れた。

さて、黒田官兵衛は罹病(りびょう=病気)の療養を理由に豊臣秀吉に帰国願いを提出しており、豊臣秀吉からの帰国許可が届くと、黒田如水は療養と報告のため、文禄元年(1592年)8月下旬に帰国した。

(注釈:罹病は口実で、実権の無い黒田官兵衛は、ことごとく朝鮮軍事奉行ら石田三成らにないがしろにされたため、嫌気をさして帰国したという説もある。)

帰国した黒田官兵衛は本土の居城・中津城(大分県中津市)には寄らず、京都へと向かった。このとき、豊臣秀吉は京都へ戻っていたのである。

豊臣秀吉は名護屋城で朝鮮半島に渡った日本軍に命令を下していたが、文禄元年(1592年)7月22日に母・大政所が危篤状態に陥ったという知らせを受け、京都へと向かった。

豊臣秀吉は文禄元年(1592年)7月27日に京都に到着するが、母・大政所は2日前の7月25日に死去していた。その後も豊臣秀吉は京都に留まっており、豊臣秀吉は京都で、帰国した黒田官兵衛から朝鮮半島の状況の報告を受けた。

その後、豊臣秀吉は文禄元年(1592年)9月に再び名護屋城へと下向する予定だったが、天皇の意向により、しらばらく京都に留まることになる。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「沈惟敬に騙された小西行長-李如松の襲来のあらすじとネタバレ」へ続く。

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