黒田長政と碧蹄館の戦い

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「黒田長政と碧蹄館の戦いのあらすじとネタバレ」です。

このページは「黒田長政が漢城に撤退した理由のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■黒田長政と碧蹄館の戦い
黒田官兵衛は明軍の再来に備えて首都・漢城(ハンソン)の守りを固める事を献策したが、小西行長は黒田官兵衛の献策を馬鹿にして平壌城に戻り、明(中国)から使者・沈惟敬の降伏の申し入れを盲信したために騙され、文禄2年(1593年)1月に大将・李如松の大軍に攻められ、平壌城を奪われた。

これを受けた軍事奉行・石田三成は、諸将に使いを出して、諸将を漢城に集め、明軍に対抗する事にした。

白川城を守っていた黒田長政は、明の大軍を撃退したが、大谷吉継の説得を受け、首都・漢城(ハンソン)へと引き、諸将が漢城(ハンソン)に終結した。

文禄2年(1593年)1月18日、平壌城を占領した明軍(中国軍)の大将・李如松は10万の軍勢を率いて開城(ケソン)へ入り、漢城(ハンソン=現在のソウル)に居る日本軍の様子をうかがった。

このとき、明軍(中国軍)の張通事が、李如松に「日本人の勇士は皆、平壌で討ち死にし、漢城の兵は皆、老兵ばかりで、弱兵なれば、恐るるに足らず。1戦にて追い散らす事は難しくない」と報告した。

李如松は、張通事の報告を聞いて、大勢を開城の守備に残して、明軍(中国軍)2万を先陣とし、朝鮮軍を後陣とする計数万の軍勢を率いて出陣した。

そして、文禄2年(1593年)1月18日、明の大将・李如松は開城川を渡って、漢城の近くにある碧蹄館(ビョグジェグアン)という所まで来た。

このとき、漢城では黒田長政が東大門を守り、小早川隆景が南大門を守っていた。南大門は明軍が攻めてくる方向なので、毛利元康・小早川秀包・立花宗茂(立花左近)が小早川隆景の指揮下に入り、輪番で南大門の夜間警備をしていた。

文禄2年(1593年)1月26日夜、立花宗茂が夜間警備をしていたとき、漢城から10町(1km)離れたところで、明軍を発見したため、立花宗茂は明軍へ攻撃をかけた。

立花宗茂は良く戦ったが、兵力の差は如何ともしがたく、歴戦の猛者・十時伝右衛門(十時博右衛門)が討ち死にしたほか、兵士73人が枕を並べて討ち死にし、兵士数十人が負傷した。

このとき、立花宗茂は鎧中に矢が突き刺さり、蓑毛(みのげ)の様になっていたが、鎧が良かったため、矢は鎧を貫通しなかった。

このとき、黒田長政は戸川肥後守(戸川達安)の元を訪れて話し込んでいた。そこへ、立花宗茂が窮地に陥っているという知らせが届く。

東大門へ戻れば、黒田長政の手勢は整っていたが、黒田長政は東大門まで戻る時間を惜しんで、その場に居た僅かな供を連れて、立花宗茂の救出へと向かった。東大門に居た黒田長政の家臣は、それを知り、黒田長政を追って戦場へと向かった。

黒田長政が立花宗茂の援軍に駆けつけて防ぎ戦うと、明軍(中国軍)は撤退していった。黒田長政と立花宗茂は、再び明軍が襲ってくるかと思い、待っていたが、その日は襲ってこなかった。

夜が明け、高いところから見渡してみると、1里(4km)ほど先に数万の明軍(中国軍)が段々に部隊を編成し、今にも漢城を攻めようという様子であった。

漢城に居る日本軍は明軍に対応するため、すぐさま群議を開いた。各武将がそれぞれに先鋒に名乗り出ると、小早川隆景が「日本と明の大事な大戦だ。老いたといえど、思うところがあるので、先手を賜りたい」と言い、しきりに先鋒を求めた。

小早川隆景は老巧の将だったので、朝鮮軍事奉行の石田三成らも小早川隆景の願いを聞き入れ、小早川隆景に先鋒隊を任せた。

先鋒を逃した黒田長政は、第2陣に加わるべく、強く希望したが、既に朝鮮軍事奉行の石田三成らの協議によって、日本軍総大将・宇喜多秀家が第2陣を務める事が決まっており、黒田長政は宇喜多秀家の後に配置された。

さらに、第3陣には石田三成・増田長盛・大谷吉継の朝鮮軍事奉行が布陣し、その後に諸将が続いた。

戦いは文禄2年(1593年)1月27日午前10時頃から始まった。第2陣の井上五郎兵衛は3000の手勢を率いて戦ったが、明軍(中国軍)は新手を投入してきたので、劣勢になった。

井上五郎兵衛は声を上げて「進めや兵ども。武士の戦場に望は、進んで死するを幸とし、退いて生きるを恥とする」と下知したが、敵の大軍を防ぎかねて、押し立てられようとしていた。

そのとき、搦め手として山に潜んでいた伏兵の毛利元康・立花左近・毛利秀包が山より攻め下りて、明軍の横合いに突っ込んだ。

毛利元康らは、簡単に敵陣の真ん中を割って通り、さらに、李如松の本陣を目がけて突き進んだので、明軍は浮き足だった。

そこで、小早川隆景1万の軍勢が一斉に鬨の声を上げ、明軍を攻め立てた。

日本軍と明・李氏朝鮮連合軍の間に小川が流れており、両軍が小川を超えようとして激しく戦った。小早川隆景は名だたる老将だったが、李如松も明国(中国)400州から選ばれた良将だったので、勝負を決しがたかった。

両軍は丑の刻まで揉み合ったが、日本軍は久しく戦で鍛えられていたので、終いには明軍を打ち崩して小川を超えて攻め込むと、明軍の旗色が悪くなった。

すると、明軍の大将・李如松は兵を諫めるために進んだが、馬を討たれて落馬した。

井上五郎兵衛は李如松を討ち取ろうとして、落馬した李如松に近づいたが、李如松の従者10人が助けに来た。李如松は従者に助けられ、命からがら戦場を離脱した。

明軍は大将・李如松が戦場を離脱したので、総崩れとなった。小早川隆景は勢いに乗じて進んで、敵を川に追い立てたので、溺死する明兵は数を知らず。

後陣の大将も川を超えて明軍を追撃しようとしたが、日本軍総大将・宇喜多秀家が「敵は大勢なり、深追いしてはいけない。早々に引きたまえ」と制したので、日本軍は漢城へと退いた(碧蹄館の戦い)。

碧蹄館の戦いで、日本軍が討ち取った敵は1万人を超え、溺れ死んだ敵は数知れず、と伝わる。

さて、従者に助けられて命からがら戦場を脱した李如松は、戦意を喪失し、開城へと逃げ帰ると、日本軍とは簡単に戦えないと思い、守りを固く閉ざした。

一方、碧蹄館の戦いで勝利した日本軍であったが、李如松は大軍で開城に籠城しているうえ、明軍は朝鮮人とちがい、思いの外、勇気があったため、日本軍は開城を攻める事が出来ず、漢城に引きこもった。

■黒田長政と明軍の戦い
漢城(ハンソン)の1里西南に大河があり、大河の辺りに明軍が出城を築いて立て籠った。出城の後ろは険しい山で、2方が沼だった。

先の戦(碧蹄館の戦い)で敵と戦えなかった事を残念に思った宇喜多秀家・前野長康・加藤遠江守(加藤光泰)は、敵の出城を攻めて手柄を上げようと思い、石田三成ら三奉行に相談した。

すると、石田三成ら三奉行が同心して許可してくれたので、宇喜多秀家ら6人の武将は2万の軍勢を率いて、明軍の出城を攻めた。

敵は小勢であったが、城を堅く守ったので、宇喜多秀家らは1000人の死傷者を出し、出城を攻め落とすのを諦め、力無く漢城へと引き上げた。

これを聞いた黒田長政は、「敵は要害を守り、防ぎ戦ったといえど、敵は小勢なので、いかほどのものか。今日の戦は、味方に武略が無く、敵に対処されたため、敗北したのであろう。明日、我が1手で出城を攻め、敵が出てきたら打ち散らす」と言い出した。

翌日、黒田長政はあえて他の手勢は加えず、黒田長政の手勢だけを率いて、明軍の出城へ攻め寄せた。

しかし、出城の明軍(中国軍)は城から出てこず、城に籠もり、矢を少々放つ程度で戦おうとしなかった。

出城の明軍は「昨日は大軍で押し寄せ、我々に負けたのに、今度は小勢で攻めて来るとは、どれほどの強敵が攻めてきたのだろうか」と思ったのだろうか。

または、先日の緑国(黄海道)の所々の戦いで黒田長政の武勇を知ったので、黒田長政の旗を見て、「黒田長政と戦いたくない」と思ったのだろうか。

結局、明軍(中国軍)は城を出て戦わず、その後、出城を開け、船に乗って開城へと引き上げた。

日本軍が碧蹄館の戦いで明の大軍を打ち破ったのは文禄2年(1593年)1月、黒田官兵衛が48歳、黒田長政が26歳の事であった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「豊臣秀吉の耳塚(鼻塚)のあらすじとネタバレ」へ続く。