黒田官兵衛(黒田如水)の囲碁事件

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「黒田官兵衛(黒田如水)の囲碁事件のあらすじとネタバレ」です。

このページは「岡本権之丞と徐礼元-牧使城(晋州城)の戦いのあらすじとネタバレエ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■黒田官兵衛(黒田如水)の囲碁事件
文禄2年(1593年)4月、龍山にある米倉を焼かれて兵糧を失った漢城の日本軍は、明軍と停戦を結び、釜山へと撤退することになった。

日本に居る豊臣秀吉は、釜山への撤退を認める一方で、「もくそ城(晋州城)を攻め落とさず、このままにしておけば、日本の武略の恥になる。軍議のことは黒官兵衛・浅野長政に相談するべし」と、もくそ城(晋州城)攻めを命じ、熊谷半次・水野久右衛門尉(水野玖左衛門)の両名を朝鮮半島へ派遣した。

さて、黒田如水と浅野長政は文禄2年(1593年)2月に豊臣秀吉の命を受けて朝鮮半島へ渡っており、朝鮮半島南東部の白国(慶尚道)にある東莱城(トンレ城)に滞在していたときのことである。

熊谷半次・水野久右衛門尉の両名が黒田官兵衛の元に来て、豊臣秀吉の指示を伝えた。このとき、軍事奉行の石田三成らは漢城に居たので、黒田官兵衛は熊谷半次・水野久右衛門尉の両名を漢城へと向かわせ、豊臣秀吉の言葉を伝えさせた。

さて、漢城に居た日本軍の総大将・宇喜多秀家は、熊谷半次・水野久右衛門尉から豊臣秀吉の指示を受けて、一足先に漢城から撤退して東莱城を訪れ、黒田官兵衛に対面し、もくそ城(晋州城)攻めについて協議した。

その後、漢城に居た軍事奉行の石田三成・増田長盛・大谷吉継も、漢城から撤退してきて、もくそ城(晋州城)攻めについて協議するため、黒田官兵衛が止まる旅館を訪れ、対面を求めた。

このとき、黒田官兵衛は奥の部屋で浅野長政と碁を打っていた。

黒田官兵衛は石田三成ら三奉行が平素から権勢を誇っている事を恨みに思っていたので、軍事奉行の石田三成ら三奉行が尋ねてきたのを知っていたが、石田三成ら三奉行を表の座敷に待たせ置き、そのまま浅野長政と囲碁を打ち続けた。

その後、黒田官兵衛は碁を打ち終わり、石田三成らに対面しようと思って表に出てみると、石田三成ら三奉行の姿が無かった。

石田三成ら三奉行は奥の部屋から漏れ聞こえてくる囲碁の音を聞き、「奉行をないがしろにして碁を打つとは何事だ」と激怒して早々に帰っていたのだ。

これに驚いた黒田官兵衛は、慌てて石田三成ら3奉行に使いを送り、「戻ってきたまえ」と頼んだが、石田三成らの怒りは治らず、戻ってこなかっった。

しかし、黒田官兵衛は「豊臣秀吉の命をもって軍評定をするため、使いを送ったのに、戻ってこないのは石田三成ら3奉行の誤りである」として、再度の使いは送らなかった。

石田三成ら三奉行らは、この時のことを根に持ち、人に会えば必ず「黒田官兵衛は囲碁に溺れて、我ら軍事奉行が対面しに行ったのに、無視して碁を打っていた」と黒田官兵衛の悪口を言いふらし、終いには豊臣秀吉に黒田官兵衛の囲碁事件を讒訴した。

すると、豊臣秀吉は「2人が囲碁好きなのを知っていたが、ワシは軍事のことばかりに気を取られ、囲碁の禁止を言い渡すのを忘れていた。囲碁に気を取られ、大事な仕事を忘れているたのは前代未聞である。されど、ワシにも失念があったので、黒田官兵衛を咎めるにあらず。全くワシの過ちである。堪忍して、敵を退治する軍慮を巡らすべし」と命じた。

石田三成ら三奉行らは、内心では黒田官兵衛の事を恨んでいたが、豊臣秀吉の鶴の一声で怒りの色を隠し、黒田官兵衛と「もくそ城(晋州城)」攻めの軍議を行い、もくそ城(晋州城)の攻略にあたった。

その後、文禄2年(1593年)6月、喜多秀家が率いる4万2000の軍勢が「もくそ城(晋州城)」を囲み、黒田長政・加藤清正の活躍により、もくそ城(晋州城)を攻め落とす。

日本軍が「もくそ城(晋州城)」を攻め落とした後、黒田官兵衛は石田三成ら三奉行が豊臣秀吉に囲碁の1件を讒訴していたことを知り、豊臣秀吉の許しを得ずに帰国し、豊臣秀吉に面会を求めた。

しかし、豊臣秀吉は明(中国)の勅使が来ないことに大いに怒っていたので、豊臣秀吉は黒田官兵衛が無断帰国したことに激怒し、登城を指し止めと切腹を言い渡した。

これに驚いた黒田官兵衛は、出家して剃髪し、「如水円清」と名乗り、蟄居謹慎して、正式に切腹の命令が下るのを待った。

如水円清とは、「水は方円の器に随ふ」「身は褒貶毀誉(ほうへんきよ)の間にあるも、心は水の如く清し」という古語から取ったものである。

(注釈:ここから黒田官兵衛の事を「黒田如水」と表記していきます。)

さて、切腹を覚悟した黒田如水は、遺書(5ヶ条の教訓)を書き、一緒に帰国した黒田兵庫助と栗山善助(栗山利安)に命じて、遺書を朝鮮に居る黒田長政の元に届けさせた。

黒田如水は申し開きをせずに蟄居謹慎していたが、遺書を受け取って驚いた黒田長政が父・黒田如水に変って豊臣秀吉に申し開きをしたため、豊臣秀吉は黒田長政の功績に免じて黒田如水を許し、黒田如水は切腹は免れた。

このとき、黒田長政は父・黒田如水を切腹の危機に追いやった石田三成ら三奉行を激しく恨み、後々まで遺恨を残した。

さて、黒田如水は処分を免れたが、大友義統・島津忠辰・波多親(はたちかし)の3人は、朝鮮出兵(文禄の役)で臆病を働いたため、領土没収の処分を受けていた。

大友義統は小西行長を助けずに敵前逃亡したため、「朝鮮の卑怯者」となり、領土の豊後を没収され、豊後は空白地となった。

(注釈:大友義統が朝鮮の卑怯者となったあらすじとネタバレは、「大友義統は「朝鮮の卑怯者」のあらすじとネタバレ」をごらんください。)

石田三成は黒田如水と仲が悪かったが、後に乱(関ヶ原の合戦)を起こす時のために、黒田長政に「我と和睦すれば、豊臣秀吉に言って豊後を拝領できるようにしよう」と持ちかけた。

しかし、黒田長政は「大国を得られるとしても、父・黒田如水と仲の悪い小人(石田三成)と和睦することは本意にあらず。大国を得たとしても、父の心を失うのは不孝の至りなり」と言い、石田三成との和睦を拒否したのであった。

黒田官兵衛が囲碁事件を起こしたのは文禄2年(1593年)、黒田官兵衛が48歳、黒田長政が26歳の事であった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「実話・黒田長政と加藤清正の虎退治(虎狩り)のあらすじとネタバレ」へ続く。