実話・黒田長政と加藤清正の虎退治(虎狩り)

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「実話・黒田長政と加藤清正の虎退治(虎狩り)のあらすじとネタバレ」です。

このページは「黒田官兵衛(黒田如水)の囲碁事件」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■豊臣秀頼の誕生
文禄2年(1593年)、第1次朝鮮出兵出兵(文禄の役)で日本と明(中国)が講和交渉(平和交渉)に入った後、もくそ城(晋州城)を攻め落とした日本軍は、朝鮮半島の南海岸に日本式の城(倭城)の建設を開始する。

豊臣秀吉は一部の武将を倭城の警備に残し、その他の日本軍を帰国させ、豊臣秀吉が帰国した兵を率いて京都に凱旋する予定だった。

しかし、文禄2年(1593年)8月3日に茶々(淀殿)が第2子・拾丸(後の豊臣秀頼)を出産したため、日本軍の帰国を待たずして、大阪へと帰った。

豊臣秀吉の実子は夭折しており、拾丸(豊臣秀頼)は豊臣秀吉が57歳の時に生まれた待望の実子であるが、豊臣秀吉は豊臣秀次を後継者と決め、豊臣秀次に関白を譲っており、拾丸(豊臣秀頼)の誕生は複雑な問題であった。

■黒田長政の虎退治(虎狩り)
明軍(中国軍)と休戦した日本軍は、漢城(ハンソン=現在のソウル)から朝鮮半島南部にある釜山へと撤退すると、朝鮮半島を恒久的に支配するために日本式の城(倭城)を築いた。

そして、豊臣秀吉は、倭条の警備に一部の武将を残し、その他を帰国させた。こうして朝鮮半島に渡った日本軍のほとんどが文禄2年(1593)9月から10月にかけて帰国する。

日本軍の大半が帰国することになったが、倭城「機張城」の普請を務めた黒田長政はそのまま機張城の警備をするため、朝鮮半島に残った。

さて、黒田長政は朝鮮半島に残ったものの、日本と明(中国)は休戦状態に入っているため、戦いが無く、暇を持て余していた。そこで、黒田長政は時々、家臣を率いて山に入り、虎退治(虎狩り)をしていた。

文禄3年(1594年)2月13日、黒田長政は虎狩りをするため、鉄砲を持って山に入ったときのころである。

黒田長政らが山で朝鮮虎を探していると、1頭の朝鮮虎が谷間より飛び出て、黒田長政を目がけて襲いかかってきた。

黒田長政は鉄砲を構えたが、虎が近くに来ても鉄砲を撃たないので、側に居る家臣は危ないと思い、「早くお撃ちください」と頼んだが、黒田長政は虎を撃たなかった。

しかし、黒田長政が鉄砲を撃たないので家臣が動揺しはじめたころ、黒田長政はようやく鉄砲を撃ち、虎の眉間を射貫いた。そして、撃たれた虎が岩穴に落ちたため、黒田長政は家臣に「あげろ」と命じた。

足軽は虎がまだ生きているのでは無いかと怖がって近づけなかったが、黒田長政の家臣・小河久太夫は恐れること無く、岩穴の中に入り、虎の鼻に手を当て、虎が死んでいることを確認すると、従者を呼んで引き上げさせた。

■菅六之助の虎退治(虎狩り)
黒田長政が1頭の朝鮮虎を退治した後、もう1頭の虎が現れる。黒田長政は再び鉄砲を構えて虎が来るのを待ち受けたが、虎は近くに居た足軽2人に向かっていった。

足軽の1人は刀を抜いて虎に斬りかかったが、虎は頭を引いたため、刀は空を切った。すると、虎は足軽の肩に噛みつき、後方へと投げ飛ばした。

もう1人の足軽も刀を抜いて虎に斬りかかったが、虎は再び頭を引いたため、足軽の刀は空を切った。すると、虎は足軽の腕に噛みつき、足軽を引き倒した。これを見た者は虎に恐れを成してしまった。

黒田長政の家臣・菅六之助(菅正利)は朱色の鎧を着ていたために目立ったのか、足軽2人を倒した朝鮮の虎は菅六之助(菅正利)に襲いかかった。

黒田長政の家臣・菅六之助(菅正利)は、黒田家の家臣を代表する黒田24騎の1人で、新免無二流と疋田陰流の両方を極めた剣豪であり、赤具足は誉れ高き武勇の証しであった。

(注釈:新免無二流は、剣豪・宮本武蔵の義父とされるの新免無二の流派です。)

黒田家には、1つの戦で7つの首級を挙げた者のみが赤具足(朱色の鎧)を許される決まりがあり、菅六之助(菅正利)は1つの戦いで7つ以上の首級を挙げ、赤具足を許された。

黒田家の家臣を代表する「黒田24騎」のなかでも、赤具足を許されたのは、菅六之助(菅正利)と井口兵助(村田吉次)の2人だけであった。

さて、朝鮮の虎は勇敢にも足軽2人を倒したが、赤具足の意味を知らず、無謀にも菅六之助(菅正利)に襲いかかったのである。

菅六之助(菅正利)が襲って来る虎を目がけて刀を振り下ろすと、虎は足軽2人の時と同じように頭を引いたので、菅六之助(菅正利)の刀は空を切った。そこで、朝鮮虎は菅六之助(菅正利)に襲いかかった。

しかし、菅六之助(菅正利)は先に足軽2人がやられたのを見ていたので、虎が首を引っ込める事を予測しており、1度目の太刀は踏み込まずに形だけであった。

このため、菅六之助(菅正利)は直ぐに刀をあげると、今度は踏み込んで刀を振り下ろし、朝鮮の虎を討ち取った。

このとき、菅六之助(菅正利)が虎刈りに使用した刀は、長さが2尺3寸1分(70cm)ある備前吉次の作った名刀だった。後に林羅山がこの刀を「南山」と名付け、現在に伝わる。

■菅六之助と朝鮮虎の呪い
菅六之助(菅正利)は第2次朝鮮出兵のとき、江南人(韓国人)の放つ毒矢を受けて負傷したため、毒の影響で顔が醜く晴れ上がり、顔に一生消えないアザが出来た。

このため、黒田藩の子供達は、菅六之助(菅正利)の顔のアザを見て「菅六之助は朝鮮で虎を斬り殺し、血を浴びたので、顔が腐ったのだ。朝鮮虎の呪いだ」と言って菅六之助(菅正利)を怖がった。菅六之助の名前を出せば、泣く子も黙る程、菅六之助は子供に恐れられていた。

後に、黒田長政は、菅六之助(菅正利)を将軍にお目見えさせようとしたが、菅六之助は顔のアザが腐って見苦しいため、お目見えは中止となった。

菅六之助(菅正利)の生涯は「菅六之助(菅正利)のwiki」をご覧ください。

■林太郎右衛門の虎狩り
さて、黒田長政や菅六之助(菅正利)は虎を退治したが、黒田長政の家臣・林太郎右衛門は、まだ虎を退治したいなかった。

このため、黒田長政らが機張城(倭城)へ戻ったが、林太郎右衛門は1人で山に残り、朝鮮虎が出てくるのを待っていた。

しばらくすると、1頭の虎が大きな口を開けて林太郎右衛門に襲いかかったので、林太郎右衛門は槍を虎の口の中に突き刺した。

槍は虎の首を貫通したが、虎は槍を噛み折り、林太郎右衛門へと向かってきたので、林太郎右衛門は槍を捨て、刀を抜いて虎を討ち取った。

(注釈:林太郎右衛門の生涯のあらすじとネタバレについては、「林太郎右衛門(林直利)の生涯」をご覧ください。)

その後、黒田長政は虎を塩漬けにして徳川家康に贈った。虎の肉は滋養強壮に効果があるとも言われており、豊臣秀吉も朝鮮半島に在留する日本軍に虎狩りを命じ、諸将に虎の肉を塩漬けにして送らせた。

■加藤清正の虎退治
朝鮮出兵の時の虎退治(虎狩り)と言えば、加藤清正の虎退治であるが、加藤清正の虎退治の逸話は江戸時代に創作されたもので、加藤清正が虎退治(虎狩り)をした逸話のモデルは、黒田長政の家臣・林太郎右衛門の虎退治とされる。

また、名護屋城には、名古屋城で最も大きい「清正石」という石がある。清正石は、加藤清正が運んだという逸話から「清正石」と呼ばれている。

しかし、加藤清正は名古屋城の石垣普請を担当しておらず、実話では名護屋城の石垣普請を担当したのは黒田長政で、清正石を運んだのは石垣工事を行った林太郎右衛門である。

ところが、なぜか、名古屋城の石垣普請は加藤清正の逸話として残り、名古屋城で最も大きいしは「清正石」と呼ばれるようになった。

どういう経緯で黒田長政の家臣・林太郎右衛門の活躍が、加藤清正の逸話として残ったのかは分らない。

なお、豊臣秀吉は朝鮮半島に残った日本軍に虎の肉を送らせたが、食べきれないほど送られてきたのか、虎の肉を食べても滋養強壮に効果が無かったのか、理由は不明だが、その後、虎狩りの中止を命じた。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「黒田節の由来は母里太兵衛と福島正則のあらすじとネタバレ」へ続く。