安藤百福と安藤仁子の家系図

NHKの朝ドラ「まんぷく」のモデルとなる安藤百福と安藤仁子の家系図のネタバレです。

■安藤家の家系図の解説

安藤百福は旧姓を「呉百福」と言い、明治43年(1910年)3月5日に、台湾の台南県東石郡朴子街で生まれました。

明治27年の日清戦争で日本が勝利したため、台湾は日本の統治下に置かれていたので、安藤百福は生まれた時の国籍は日本国籍です。

父親は呉獅玉(呉阿獅)、母親は呉千緑で、安藤という姓は、3人目の妻・安藤仁子方の姓です。

さて、父親は相当な資産家でしたが、両親は安藤百福が生まれてまもなく死に、呉服屋を営んでいた祖父・呉武に育てられました。

その後、安藤百福は台湾で台湾人の呉黄梅と結婚し、長男・安藤宏寿が生まれています。

そのようななか、安藤百福は仕事で日本と台湾を往復しており、奈良女子高等師範学校に在学中の呉金鶯と知り合い、台湾に妻子を残して日本にわたり、昭和14年(1939年)から呉金鶯と大阪で同棲を始めました。

台湾では「夫妾婚姻」という妾制度が慣習として残っていたので、呉金鶯は妾(第2夫人)という関係になります。

やがて、安藤百福と呉金鶯の間に、呉宏男・呉武徳・呉美和が生まれ、台湾から長男・安藤宏寿を呼び寄せました。

安藤百福は正妻・呉黄梅を台湾に残してきたというのが通説だったのですが、正妻・呉黄梅も大阪へ呼び寄せて暮らしていたという説もあります。

その後、安藤百福は財界人の社交場「大阪倶楽部」で受付をしていた安藤仁子に出会い、一目惚れして安藤仁子と結婚します。

■安藤仁子の家系図の解説

安藤仁子は、福島県二本松市にある二本松神社の宮司を務める名門・安藤家の出身で、父親は安藤重信、母親は安藤須磨といいます。

父・安藤重信は次男だったため、二本松神社は継げず、養子に出されたのですが、事業に失敗したため、離縁された後、大阪で人力車の会社を興して成功していました。

母・安藤須磨は鳥取県出身で、鳥取藩士の家系でした。下級藩士だったようで、詳しいことは分かりません。

安藤仁子は三姉妹の三女で、9歳上の安藤晃江(てるえ)と7歳上の安藤澪子という2人の姉が居ました。

父・安藤重信は事業に成功して裕福だったのですが、安藤仁子が子供の頃に事業が傾き、長屋暮らしに転落し、その後、会社が倒産してどん底の貧乏暮らしをしていました。

安藤仁子は電話局で働きながら、金蘭会高等女学校を卒業した後、電話交換手として京都の「都ホテル」に就職します。

そして、安藤仁子は電話交換手としての働きが認められ、ホテルのフロント係に抜擢され、フロント係時代に安藤百福と出会い、安藤百福からプロポーズされます。

安藤仁子は仕事を続けたかったので、1度、プロポーズを断ったのですが、安藤百福のもうアタックに負けて、戦時中の昭和20年(1945年)に安藤百福と結婚しました。

このとき、安藤百福は第1夫人・呉黄梅との間に生まれていた呉宏寿(安藤宏寿)を引き取ったので、安藤宏寿が長男という扱いになります。

(注釈:安藤百福は自伝で、安藤仁子は「大阪倶楽部」で受付をしていたと書いているのですが、最近は「都ホテル」の受付だったという説があります。)

■重婚問題と子供

安藤百福は、安藤仁子と結婚したのですが、第1夫人・呉黄梅と第2夫人・呉金鶯という2人の女性と結婚していたので、「重婚問題」が浮上します。

日本に連れてきていた第2夫人・呉金鶯は、日本の生活に馴染めず、安藤百福と離婚して台湾に帰ったのですが、第1夫人・呉黄梅とは婚姻関係が続いていたのです。

ただ、台湾は日本の植民地でも、台湾と日本の戸籍は別になっていたので、安藤百福は安藤仁子を正妻、第1夫人・呉黄梅を妾という扱いにして重婚を回避し、安藤仁子と結婚したようです。

(注釈:2005年5月27日に大阪家庭裁判所が重婚と判断し、安藤仁子との結婚は無効という第一審判決を下しているようです。)

■チキンラーメン誕生

戦後、安藤百福は台湾人なので、日本国籍と中国国籍を選ばなければなりませんでした。日本国籍を選べば、敗戦国民となり、中国国籍を選べば、戦勝国民となります。

日本国籍を選べば財産税によって財産を没収されるのですが、中国国籍を選べば財産を守れるので、安藤百福は中国国籍を選び、大阪大空襲で焼失した事務所や工場の保険金として4000万円を得ました。

当時の4000万円は現在の価格で1000億円と言われており、安藤百福は「日本一の金持ち」と呼ばれるようになります。

さらに、戦後は喰うために土地が安く売られていたので、安藤百福は大阪の一等地に広大な土地を手に入れ、戦後からわずか3年間の間で巨万の富を築き、日本一の大金持ち、関西財界のドンとなります。

安藤百福は脱税で逮捕されて資産と事業を失った後、華僑から頼まれて信用組合「大阪華銀」の理事長に就任するのですが、「大阪華銀」には金融の専門家が居らず、貸し出しがルーズで貸出超過に陥ってしまいます。

そのようななか、安藤百福の元に信用組合「大阪華銀」の経営を一転させるような投資話が持ち込まれ、安藤百福はこの投資話に乗ってしまうのですが、この投資は失敗して大きな損失を出しました。

結局、信用組合「大阪華銀」は倒産し、安藤百福は全財産を失ってしまいます。

ところが、全財産を失っても事業意欲は衰えておらず、安藤百福は47歳にして、即席麺「チキンラーメン」の開発に取りかかったのです。

そして、試行錯誤の末、3人目の妻・安藤仁子が揚げていたテンプラを見て、麺を油で揚げて水分を飛ばす「油熱乾燥法」を発見して「チキンラーメン」を完成させ、昭和33年8月から販売を開始しました。

しかし、当時はうどん玉が6円、乾麺が25円で購入できたことから、問屋は1袋35円もする「チキンラーメン」を高すぎると言い、相手にせず、「チキンラーメン」は全く売れませんでした。

ところが、昭和33年12月に、社名「サンシー殖産」から「日清食品」へと変更したことを切っ掛けに、爆発的に売れ始めたようで、昭和34年に大ヒットさせ、日清食品は昭和38年に東証二部に上場を果たしました。

さらに、安藤百福は昭和46年に「カップヌードル」を発売。浅間山荘事件を切っ掛けにカップヌードルが爆発的にヒットし、昭和47年に東証一部に上場して、1代にして日清食品を一流企業へと成長させました。

■子供と子孫の解説

安藤百福には6人の子供が居るのですが、日本で安藤百福の子供としてカウントされるのは、台湾の第1婦人・呉黄梅との間に生まれていた長男・安藤宏寿と、安藤仁子との間に生まれた次男・安藤宏基と長女・堀之内明美の3人だけです。

第2婦人・呉金鶯との間に生まれた子供はカウントされていません。

そして、日清食品を大企業に成長させた安藤百福は、長男・安藤宏寿を後継者に選び、昭和56年に会長へと退き、副社長を務めていた長男・安藤宏寿に日清食品の社長を譲りました。

ところが、2年後の昭和58年に安藤百福は、長男・安藤宏寿を解任し、社長へと復帰しました。

長男・安藤宏寿は、あまりラーメンに熱心では無かったらしく、明星食品が起こした高級即席麺ブームに対して動こうとしなかったため、業を煮やした安藤百福が長男・安藤宏寿を解任して社長に復帰し、高級即席麺の開発に乗り出したと言われています。

その後、安藤百福は昭和60年に次男・安藤宏基に社長を譲ったのですが、次男・安藤宏基はマーケティング重視だったので、マーケティングを軽視する安藤百福とは経営方針が合いませんでした。、

しかも、次男・安藤宏基は3代目社長に就任早々、「打倒カップヌードル」を掲げ、安藤百福を激怒させました。

安藤百福と次男・安藤宏基は経営方針が違ったので、仕事のことで度々、対立しており、安藤仁子は親子げんかのとばっちりを受けたと言います。

ちなみに、長男・安藤宏寿が無かったことになっており、次男・安藤宏基が2代目社長と表記されることもあのですが、2代目社長は長男・安藤宏寿です。

さて、次男・安藤宏基は昭和51年(1976年)に荒牧淑子と結婚した。この結婚は政略結婚ではないようだ。

その後、安藤宏基と荒牧淑子の間に長男・安藤徳隆と次男・安藤清隆が生まれた。

その後、平成20年に日清食品ホールディングスを設立したことにともない、次男・安藤宏基は日清食品の社長を中川晋に譲り、日清食品ホールディングスの社長に就任した。

その後、日清食品は、平成25年に三浦善功が5代目社長に就任し、平成27年4月に安藤宏基の長男・安藤徳隆が日清食品の6代目社長に就任した。

なお、「まんぷく」のあらすじとネタバレは「まんぷく-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

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