三路の戦い-小西行長と順天城の戦い

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「三路の戦い-小西行長と順天城の戦いのあらすじとネタバレ」です。

このページは「黒田長政と蔚山城の戦いのあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■豊臣秀吉の死
慶長3年(1597年)3月、朝鮮半島に駐留する日本軍の配備に変更があり、梁山城を守っていた黒田長政は西生浦城へと入った。

慶長3年(1597年)4月、豊臣秀吉は、加藤清正・小西行長・島津義弘・黒田長政など6万の軍勢を朝鮮半島に残し、小早川秀秋・宇喜多秀家など7万の軍勢に帰国を命じる。帰国した7万の軍勢は、慶長4年(1598年)に再び朝鮮半島に渡る予定であった。

黒田如水(黒田官兵衛)も慶長3年(1597年)4月の帰国命令によって帰国し、豊臣秀吉に朝鮮半島の状況を報告すると、豊臣秀吉は大いに喜び、黒田如水を労った。

さて、豊臣秀吉は晩年、幼い嫡子・豊臣秀頼を補佐するため三中老・五大老・五奉行を制定しており、豊臣政権は五大老と五奉行によって運営されていた。

三中老は、生駒親正・堀尾吉晴・中村一氏の3人である。

五大老は、徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元の5人である。

五奉行は、石田三成・浅野長政・増田長盛・前田玄以・長束正家の5人である。

その後、豊臣秀吉は病状が悪化し、回復の見込みが無いことを知ると、徳川家康と前田利家とを呼び寄せ、「私が死んだら、私の死は秘匿し、豊臣秀吉の命令として石田三成を朝鮮に派遣して、日本軍を撤退させよ。著しく困難な場合は、徳川家康が朝鮮に渡れって命令をせよ」と遺言した。

豊臣秀吉は、慶長3年(1597年)9月に朝鮮半島に大軍を派遣する予定だったが、慶長3年8月18日(1598年9月18日)に死去してしまう。

豊臣秀吉が死んだとき、黒田如水は発病して中津で寝込んでいたため、上洛できず、病床で豊臣家の行く末を案じていた。

しかし、豊臣秀吉の死後は五大老・五奉行によって豊臣政権が運営されていたので、黒田如水は豊臣政権には近づかず、成り行きを見守ることにした。

さて、豊臣秀吉の死後、五大老・五奉行によって豊臣政権が運営されることになり、豊臣秀吉の遺言に従い、豊臣秀吉の死は隠されたまま、朝鮮半島からの撤退が遂行されることになる。

■三路の戦い
慶長3年(1597年)2月、明(中国)は「第1次・蔚山城の戦い」での敗戦を受け、増援部隊を送り、明の大将・董一元が大軍を率いて朝鮮半島へ入る。

明軍の総大将ケイカイは、董一元の援軍を得て軍を立て直すと、明軍を3手に分けた。すなわち、西路軍・劉挺、中路軍・董一元、東路軍・麻貴の3軍である。

これは、西路軍・劉挺が順天城を攻め、中路軍・董一元が泗川城を攻め、東路軍・麻貴が蔚山城を攻める作戦で、3路軍は慶長3年(1597年)8月に南下を開始した。

また、陸路から南下する3路軍に同調し、明の水軍大将・チンリンが水軍1万3000を率いて南下し、李氏朝鮮の水軍大将・李舜臣と合流した。

■加藤清正と第2次・蔚山城の戦い
慶長3年(1597年)9月下旬、東路軍・麻貴が率いる明・李氏朝鮮連合軍3万は、蔚山城に居る加藤清正は籠城の準備を整えており、固く守って打って出なかった。

明軍は第1次・蔚山城の戦いで大敗しているため、東路軍・麻貴も積極的に戦わず、慶長3年(1597年)10月に撤退した。

■島津義弘と泗川城の戦い
中路軍・董一元は、明・李氏朝鮮連合軍・5万を率いて慶長3年(1597年)9月18日に晋州へ入り、慶長3年(1597年)9月27に泗川古城を包囲した。

(注釈:元々あった泗川城を「泗川古城」呼び、日本軍が築いた倭城・泗川城を「泗川新城」と呼んで区別する。)

泗川古城には、島津義弘の家臣・川上忠実が数百の手勢で守っていたが、圧倒的な不利だったため、敵陣を突破して泗川新城へと逃げた。川上忠実は大勢の死傷者を出しながらも、敵陣を突破して、泗川新城へと逃げる事が出来た。

さて、泗川新城には、島津義弘が数千の兵で籠もっていた。泗川新城は要害だったので、島津義弘は泗川新城に兵を集め、中路軍・董一元を待ち構えた。

一方、泗川古城を落とした中路軍・董一元は5万の大軍で、慶長3年(1597年)10月1日に泗川新城への総攻撃を開始する。

島津義弘は数千の手勢であったが、火器を巧みに使い、中路軍・董一元を攻撃する。中路軍・董一元は火薬庫が爆発するなどの被害を出した。

島津義弘は機を見て、出撃を命じると、島津軍は泗川新城の城門が開くのを待ちきれず、がわずかに開いた城門から雪崩出る様にして打って出た。この時の島津義弘の武勇は、「朝鮮の半扉」として現在にも語り継がれる。

泗川新城を打って出た島津軍は一騎当千の働きをして、中路軍・董一元の大軍を打ち崩し、撤退する路軍・董一元の大軍を追撃して、敵を散々に討取った。

島津義弘は、この時の活躍から、明・李氏朝鮮連合軍に「石蔓子(イシマンズ)」と呼ばれて恐れられた。石蔓子とは、「石の饅頭」と「島津」を掛け合わせた言葉である。日本では、島津義弘を「鬼島津」と呼ぶ。

■小西行長と順天城の戦い
順天城は赤国(全羅道)の湾岸に宇喜多秀家らが築いた倭城で、三方を海に囲まれ、満ち潮を利用した港を持つ要害であった。

順天城は、以前からあった「順天旧城」と区別して「順天新城」とも言い、ここに小西行長らが1万3000で守っていた。

慶長3年(1597年)9月、西路軍・劉挺は全州へ入ると、全州に留まり、順天城に居る小西行長に礼を尽くして和議を持ちかけた。その一方で、劉挺は水軍大将・チンリンに9月19日を期日に水路から順天城を攻撃するように要請した。

慶長3年(1597年)9月19日、小西行長は松浦鎮信の反対を押し切って和議に応じ、会談の会場となる順天旧城へ向かった。

西路軍・劉挺は伏兵を配置して小西行長を捕らえる算段であったが、小西行長が到着する前に、伏兵の合図となる伝書鳩が暴れて飛んでしまったため、伏兵が起きてしまい、小西行長は伏兵に驚き、順天城へと逃げ帰る。

計画に失敗した西路軍・劉挺は、直ちに兵を進めて順天城を攻めた。一方、水軍大将・チンリンも西路軍・劉挺に呼応して海上から順天城を砲撃した。

慶長3年(1597年)10月2日、西路軍・劉挺は陸海の両面から順天城に総攻撃をかけたが、順天城の反撃は激しく、陸から攻めた西路軍・劉挺は大打撃を受けた。

慶長3年(1597年)10月3日、西路軍・劉挺は水陸の両面から順天城に夜襲をかける算段であったが、陸の西路軍・劉挺は動かず、水軍だけの攻撃となった。

明の水軍大将・リンチンは満ち潮に乗じて順天城を攻めたが、合戦中に引き潮となり、多くの船が座礁してまう。これを、日本軍に攻められ、明の水軍は大きな被害を出した。

慶長3年(1597年)10月7日、西路軍・劉挺は順天城の包囲を解いて後退すると、10月9日には明の水軍大将・チンリンも退き、順天城の戦いは終わった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「黒田官兵衛と黒田長政の朝鮮出兵の最終回のあらすじとネタバレ」へ続く。